八木一夫(1979没)は「あなたたちがわたしの作るものをオブジェと言うのなら、この茶碗もオブジェなのだと申し上げたい」という趣旨のことを言っている。やきものとは普通うつわのことである。陶磁器という語を言い充てることもできる。世間でやきものと言えば陶磁のうつわであることほとんどイコールであろう。そしてうつわには工業生産される一個当り数十円のものもあれば、一方でうつわ一つにおのれの魂魄を込めようとする世界まである。これは彫刻や絵とはちがう陶磁の世界の特殊性である。やきものには「用」ということがあるのである。それは陶芸の弱みであり強みでもある。八木の言には用を甘受してなお、旧弊とは一線を画さんとする創作の矜持のようなものがうかがえる。彼は「わてらどうせ茶碗屋でっせ」とうそぶいていた。
ところで陶磁器は、諧調系と破調系ともいうべき二つの系統に分けることができるのではないか。。思うに何千年来のChinaの陶磁器は、造形装飾ともに前者である。対してローカルわが国は、破調系に美を見出してきた。数年前のこと、東京でやった茶会に中国の人が来ていたのでこの「ひょうげた茶碗」について貴見はいかにと聞いてみたところ、中国人なら洟(ハナ)も引っ掛けないだろうと言われたことがある。さもありなんそれで結構と思った。これは好みというよりも、深く文化的彼我の違いだからいかんともしがたい。しかし日本人でもそんな人はいる。やきものの無作為的な破調の美を首肯しない人たちである。これは好き嫌いの問題であろうが、残念に思うことが往々ある。古人が、唐物荘厳の絶対美に挑むようにしてなした前衛的行為の淵源は、五百年前のことである。この五百年つちかわれてきた審美眼は失ってはもったいないもので、大切にすべきだろう。諧調と破調、どちらが上、下と言うのではない。わたし達がわたし達である所以に属するものは引き継ぐべきで、棄つるべきものではないということである。
それはインターナショナルに耐え得るものであり、そういうものもなければ他から要らぬ侮りを受けることがあるのである。
写真の福西毅のガラス作品は、用をかろうじて残してある。もっともこれではワインも飲みにくかろう。天地無用のわれもの注意の印象である。不安定なおもむきであり、シンメトリーではない…
筆者は才能は天賦のものだと思っている。この手の仕事をねらって成功する人はやはりまれだと言わざるを得ない。そこいらの諧調系の仕事ではこの手の仕事にはかなわないのである。もう一つ破調派の本物は諧調をよく兼ねるが、諧調派は破調をふつう兼ねることが出来ない。福西は兼ねるようだ。まあしかし、やきものガラスを問わず、茶碗立体を問わず、それがオブジェとして立っているかは、いつに作者の詞藻のあるなしにかかるのではないか。この点では諧調も破調もない。ただ破調びいきは少数である。だからどちらかと言えば無勢の肩を持ちたい。判官びいきである。しかし誤解なきよう、諧調のものにも孤高の境地はある。結局は筆者の好みひいてはこの邦家に芽生えた美意識による好みであり、そして差別化された好みなくして数寄の世界はなく、生を遊ぶ甲斐もなく、それは作る人も見る人もいっしょではないかと思うのである。
一昨年以来の二度目の個展であります。もちろんワインもつぎたくなるような作品も出てまいります。何卒ご清覧のほどお願い申上げます。
葎
TAKESHI FUKUNISHI
1966 大阪に生まれる
1990 大阪芸術大学金属工芸卒
1993 日本のガラス展(小田急百貨店)
1994 サントリー美術館大賞展
1998 日本の現代ガラスの一断面(愛知県陶磁資料館)
1999 日本のガラス2000年展(サントリー美術館)
2001 ガラスの魅力展(姫路市立美術館)
2003 遠慮のないガラス-今日の日本から
(北海道立近代美術館)