僕は作った作品の写真を自分自身で撮ることが多いが、最近デジタル一眼レフカメラで撮ることがすっかり多くなった。これをA4サイズくらいにプリントしてみると大変きれいな画像が出てくるのだが、ポジフィルムを使っていた頃の画像にくらべると、色の乗りや何か微妙なところが薄っぺらいような気がするのである。デジタルは本来記号の集合体で構成されているので、最後はイチかゼロの要素になってしまう。画像をコンピューターで拡大していくと四角いピクセルが見えてくる。 対するにポジのほうは不定形な色素で構成されているため、記号のような整然とした配列になるには、分子レベルまで下がらなければならないであろう。これは人間の感覚を越えるレベルである。
私たちが陶器の質感を感じるとき、カメラのフィルムのような、割り切れない複雑な要素がからみ合うところに魅力を感じているような気がする。
僕は電気窯を焼成のほとんどに使っているが、電気炉でさえデジタルのようにそっくり同じものはできない。これにはもちろん土というもっともいろいろの鉱物の混ざりあったものを土台に使っているという事ももちろんあるのだが。窯に入れる物の大きさや詰め方、窯焚きの気温、湿度など様々な要素がからみ合ってくる。いくら僕ががんばってデータを取ったところで、ちょっとした条件の違いで微妙だが違った焼きになってくる。この微妙な違いが、ときには作品全体の雰囲気の違いを決定的なものにする時がある。まるで人の顔がちょっとした目や鼻の違いで、全然違う感じになってしまうように。
この仕事をはじめた頃、この違いが許せなかったが、今はこの複雑性こそが陶器を面白く見せている要素であり僕はこの扱いにくい要素(特に窯)と仲良く、出来るだけおこらせないようにすることにきめている。
窯にはもっと気むずかし屋の穴窯、登窯などがいるが、今の僕にはこの人たちと仲良くするにはまだまだ修行が足りないようだ。山田晶
山田晶は何度も云うが、父に山田光、祖父に山田テツを持つ。だから彼はまあ陶家の三代目である。
祖父テツは、岐阜の浄土真宗の寺の生まれで、文人気質のある人で、思うところあってか、当時ならすでに若くはない年で京都に出てきた。のちに富本憲吉と深く交わり、思想を同じうして新匠会という団体を結社している。
父光は、ご存じあの走泥社創業者の一人である。八木一夫とは生涯の友であり、八木に拮抗せんとして及ばずともかたや独自の作品世界でもって屹立している。けだしお二方とも何者かである。
親の因果が子に報いと云うが、特に芸術を志す血脈において、それは顕著である。無惨なケースをしばしば見る。芸術で名を残すほどの親を持ったなら、子は変な料簡(リョウケン)は起こさず、商売替えを考えるにしくはなさそうである。
晶の場合はラッキーであった。祖父も父も前衛の気概気質を持った人で、行動においてもそれは明確なものであったが、一方で陶家として、家業として、根っこのところで祖父の残したオリジナルデザイン(作風)が連綿されたからである。
自力他力で云えば、芸術の行為は、全き自力であるが、晶はファミリーの前衛の気質をおだやかに受け継ぎながら無事である。生き方においてもそうで、過度の、詮なきおのれの計らいを好まぬようなところは作品にも現れている。そして三代を経て、ファミリーの最も深化したステージへ晶は達しつつあると、近頃とみに思われるのである。(山田テツのテツは吉吉と書く)-葎-
AKIRA YAMADA
1959 京都生まれ
1983 京都府立陶工職業訓練校卒
1986 京都市工業試験場本科卒
1987 朝日現代クラフト展
1988 朝日陶芸展
1989 セラミック アネックス シガラキ’89
(滋賀県立近代美術館ギャラリー)
1992 個展 ギャラリーマロニエ(京都)
1994 ビヨンド ヴェセル(マクドガル ミュージアム ニュージーランド)
1999 個展 ギャラリー器館(京都)
2000 国際陶芸交流展(中国美術館 中国北京)
2003 個展 ギャラリープス(東京)
2003 2003現代韓日陶芸展(錦湖美術館 ソウル)