やきものに装飾を施すとき、えてしてやり過ぎの弊におちいりがちで、陶芸家はどこで筆を止めるか、ヘラをカンナを置くかに悩まされる。もう一筆一削りと思ってやったことをあとで許せなく思うことがあろう。深爪したような気分になるのではないか。陶芸には装飾性ということが分かちがたくつきまとう。装飾は立体としてのやきものを生かしも殺しもする。装飾とやり過ぎの問題は、陶芸家の深く悩みとするところなのである。
今展の植葉香澄の作品は、トゥーデコラティヴの印象である。世の常の陶芸家の悩みあるいは戒めとするところを平然と突きやぶって装飾過多である。否定的に形容すれば、毒々しくきわ物的な、手当り次第のてんこ盛りの、稚拙を装ってある種こびているような、そのようなものと見る人もいそうである。好みの激しく分かれる作風にちがいない。しかし好みというものは激しく分かれるべきなのである。
違う眼をもってすれば、これは植葉生来のセンスの自然的発露であることがわかるはずである。天然なのである。脳ミソの命ずるまま作りたいものを作っているようなあっけらかんとした様子。横溢しているエネルギー。ヘタウマなどねらっていない。ディテールに見せ場がある。装飾モチーフ(されこうべまである)の採用と組合せ、フォルムともに意表に出てまづもって人の目を驚かす。そして見落としてならないのは、作品の発する少しく毒気の効いた寓意性、物語性である。もっとも本人は意識して寓意を盛っているわけではなかろう。ナンセンスに作っているはずである。しかし抽象ができている。寓意を感じさせられてしまう。ここが小憎らしいところで、端倪(タンゲイ)すべからざるところなのである。彼女一流のナンセンスが磁場となっておのずと作品に寓意性を帯びさせ、作品にものいわせているのである。ことごとに解釈を試み、区々たることに自問自答したがる現代の私たちを笑うようである。彼女の装飾てんこ盛りの作品群は、無意味をもって図らずも見る者を自在に翻弄するかのようである。
以下、蛇足になるかも知れない。植葉のような作品の先祖がまさか薩摩や宮川香山でもないのであるが、彼女の作風と見た目そっくりな人が稀有なことながらいる。先んじてあの堤展子(ノブコ)の作品群がある。やきものなど狭い世界である。植葉は堤のマネッコであろうか(堤を知らない方ご寛恕ください)。筆者がそれを云うと困ったような顔をしていた。堤の作風は、余人にマネてマネできぬものである。寸分たがわぬ写しのできる二番師でも無理でありムダである。無比にユニークなのである。誰であれもしマネしたらすべてそれは徒労に終わる、堤の作品世界はそのような類のものなのである。ゆえに植葉はマネているのではない。もとより堤と植葉の精神は別個のものである。時代が植葉のような作品を生ぜしめているということがあろう。この世は新陳代謝の連続からなる。植葉は植葉で堤ワールドに拮抗し凌駕するほどの作品世界を築いていってもらいたい。そう期待させるに足る新進の登場と思われる。-葎-
UEBA KASUMI
1978 京都生まれ
2001 京都市立芸術大学陶芸科卒
2002 京都市工業試験場陶磁器コース了
2003 京都府陶工高等技術専門校図案科卒