マスコミに報道される犯罪者はたいてい地域社会から浮いた存在であるとか、近所付き合いが悪かったとか、典型的にそういう人になっている。そのことが犯罪者の要件であるかのように紋切型に報道される。なるほど犯罪者は孤独なのかもしれない。しかし人はだれでも仕方なく本質的に孤独である。そしてそれが現代ではよりあらわに耐えがたいものになっている。たとえばネット上でこの指止まれ式に、一面識ない赤の他人どうしがインスタントな死を共有する。無惨で不毛な孤独をかこつ人は多い。犯罪者の孤独を憐れむことができるか。しかしあの道行き心中はどう想像してみても気持ちがわるい。
人は友の数を自慢したがる。友を多く持つ人はそれだけ盛昌なのであろう。徳をそなえているのかもしれない。人はさびしき。人ひとりなるはよからずと云う。しかし友のごときものと真の友とは違う。友情論というものがあるが、昔読んだ本に、真の友とはいかなるものぞと定義して、すなわち友の難事や不幸に駆けつけるとき我知らず足が踊っていることがないか、友の成功や出世は一度は喜べても二度三度と重なればなんとなくいやな気持にならないか、友に金を貸せと云われたとき喜んで貸すか、そして貸したことを忘れることができるか、汝にこれありや否やというほどのことが書いてあった。ということはそんな友と友は、昔はそれに近いものがあったかもしれないが、今の世ではいないということである。金の貸し借りは友情をそこねるとか云うが、なに返ってこないことを思って貸すのが惜しいのである。この世で真の友が得られないとすればせめて友のごときものを集めるしかないようである。
芸術は請負(ウケオイ)仕事ではない。だれに頼まれもしないのに自身の内の奥深いところを勝手に不特定多数の人に表わそうとする所業である。かつほぼ成功のおぼつかない仕事である。そしてこれほど不安で孤独な営為もない。なのになぜ、なにが人を突き動かしてそこに向かわせるのか。それはきれいごとでなく反応を得たいがためである。絶海の孤島で芸術行為をなしても芸術にはならない。芸術はその芸術のフリーク、ファン、シンパを求める。その数は多ければ多いほどよいと欲するものである。そして多ければ多いほどその芸術には普遍性が内在していたということになる。その芸術家は成功したのである。しかしこのことがあるためには、いわば地球に内核があるようにコアとなってくれる真の理解者が存在しなければならない。なければそれは流行りものすたりものである。真の理解者とは、作品を前にして電光に打たれたように転瞬のうちに交感する人のことである。尋常でない深い同情をもよおす人のことを云う。それがもとで人生の軌道修正をも甘受する人である。身代限りも厭わない人である(昔はいた)。このたぐいの人たちは絶対少数である。この絶対少数を始点として逆ピラミッド状にその芸術は広がってゆくのである。
人間関係では真の友を得ることはほとんど不可能事だが、かく芸術においては稀ではあれ可能である。真の理解者は芸術の人にとって生涯の友であろう。結局この真の理解者(決定的な否定者ともなり得る)を求めて芸術の人は遠くあてない道をゆくのである。それは作品の売れる売れないの話しではない。生活が立つかどうかの話しでもない。めぐり会えれば芸術の人の冥利(ミョウリ)というものはここに尽きるのではないかと思う。
堤展子の展は今回で五回目になる… 貴方には心丈夫に思っていただきたい。貴方には真の理解者がすでにいます。そして今展でも一人でよい、堤展子に新たな真の友(理解者)の訪れがあらんことを願い開催したく存じます。それが弊館の甲斐でもあります。友の友は友と云うではないですか。
葎