内田鋼一についての一考察
内田鋼一は名古屋の鉄工所の次男らしく、そういえば名の一字はハガネである。十代のころは相当荒れていたと聞く。家が真っ当でもグレる奴はグレる。性質もあるだろうが、思春期のホルモンの分泌量は押さえがきかないので仕方がないのである。彼は昂然としていたのだろう。しかしときに美しいものに触れでもしたら、悄然とする少年でもあったような気がする。
彼はやきものをやる気などさらさらなかったそうである。そのさらさらの彼が、ひょんなことから瀬戸の窯業高校へ行く。そしてどういう風の吹きまわしか、やきもので衣食している今の自分がある。彼は自ら陶芸の門戸をたたいてその道に入っていったわけではない。だから入口のところで無碍であり自由である。だから門外漢のようにやきものとの関係をとり結ぶことができる。やきものに淫し過ぎることがないので、作品からいやらしい匂いが立ちのぼることがない。やきものはやきものなのであって、それ以上でも以下でもないと観じているふしがある。
子供のケンカといってもそこには恐怖がある。図体がでかくなればなおのこと、死の恐怖さえ味わうこともあろう。ケンカするのは阿呆と言わねばならないが、ケンカするには圧搾されたパッションの奔出を必要とする。そして場数をふめばケンカのなんたるかを会得することがあるのではないか。それは相手のことを一瞬のうちに見抜き、緊張の極みのなかで自己を客観視できるようになるということである。かような経験が経験として身につく者はまれである。なぜならケンカはもともと阿呆のする所業だからである。
内田は高校を出たあと海外へ行くようになる。いまだ自分で自分の取扱いに苦しむように東南アジアインドアフリカヨーロッパを旅した。それは世の常の海外旅行ではなく、長く滞在し、そこで生活の資をやきものの仕事で得るというものであった。今は海外へ行く人は千万人もいるが、あれはハトバス旅行がそのまま海外に出たもので、パチパチ写真をいくら撮っても脳裏に刻まれるということはないだろう。ロバは旅して帰ってもしょせんロバだが、内田は現地のやきものの村に入っていき、そこで仕事をさせてもらっていくばくかの労賃をもらい、土地の人情に触れ、ヤバイ目にもあい、あるいは自分のやきもの観を覆されたりして帰ってくるのである。野太い行動力である。内田はここでも自らの経験を経験として自分に刻み込んでいる。異文化のなかに深く沈潜してみて、彼は日本に生まれた自分と日本の事柄とに遠くから渡りをつけてみようとしたのだろう。そして渡りをつけてしまったような相貌をしている。
内田の作品はすでにひろく世に知られるところとなっている。あのセンスは彼の奈辺から来るものなのか、それはひと口に言えば生まれつきなのであろうが、それに加えて、彼の経験が作品に乗り移ってものをいっているのである。筆者など一つも経験が経験とならない。ぎゃっと云っても3分だけである。人は大体そうである。内田はパッションと深い思惟により、経験を刻みながら生きている。それがやきものという形あるものに敷衍されて生かされる。これができないのである。作品は人なりという。また作者と作品とは別ものともいう(作者を知ることが鑑賞の妨げになることがある)。どちらも真である。内田は自己の来し方三十数年をぴしゃりと作品にはり付けて、おのれ自身を彷彿とさせて類なくユニークである。-葎-
KOUICHI UCHIDA
1969 愛知県名古屋市生まれ
1990 愛知県立瀬戸窯業高校陶芸専攻科修了
1992 三重県四日市市に移る
2000 うつわをみる 暮らしに息づく工芸展
(東京国立近代美術館工芸館)
2003 UCHIDA KOUICHI展
(三重県 Paramita Museum)
2003 作品集『UCHIDA KOUICHI』(求龍堂)
2004(富山県 4thミュージアム)