出展作家
秋山陽 植葉香澄 内田鋼一 岡本作礼
片山亜紀 加藤委 川上智子 川端健太郎
川淵直樹 北村純子 鯉江良二 小林英夫
杉本太郎 鷹尾葉子 堤展子 寺井陽子
長谷川直人 服部竜也 堀香子 松田百合子
松本ヒデオ 村田森 森野彰人 柳原睦夫
山田晶
茶碗に今さらなにかを盛ろうとしてもさてなにがあろうか。なにを盛るのか。個性というものか? ある種の概念か思想か? 断片的な美か? 図ってなにかを盛ろうとしてもムダである。現代の私たちには無理なのである。また無理からぬことなのである。古人のなしたことを横目に見る、それが脳裏をはなれず、なんとか新手はないものかという思いもむなしく、結局、古人の糠粕をなめたにすぎないようなものが出来てしまう。精神のぬけた外形のみがそこにある…
なにも古人がえらかったといいたいのではない。たまさかあの時代に、喫茶する茶碗という小立体に盛るべきあるいは盛らずにはいられない時代精神と彼らは出くわしたということである。作る方にも作らせる方にもその邂逅があったのである。山里のやきもの村に、なんの個我もなく黙然と作りほうけていた工人に時代精神の風が吹く。彼らは柳宗悦のいう民芸である。作り手は柳のいう本来の意味での民芸状態にある。彼らに近代的個我などない。そしてあの時代の風を満腔に受けながら、健康ではつらつとした暮らしを送っていた。昔の暮らしは暗かったというなかれ。
そこへ受け手側からあるベクトルが働くことになる。彼らは仏法、なかんずく禅宗をバックボーンとして在家にあって俗の生活に革命をもたらそうとする人たちだった。宗教と哲学のちがいは知らぬが、禅思想に悟入した当時の人の確信は、一分のゆらぎもないものであったろう。悟入した高次な精神とは、どのようなものだろう。禅においては、浄土教とはおもむきを異にして、自力にて、いわば原子単位のところでおのれをむなしゅうすることができるかどうかが問われる。それはイリュージョンなのかも知れないが、それが信仰というものである。そのために殉ずることがあるのである。そのような人たちが体系づけようとした、人間としてのより善い生活。その実現のために茶が採用される。喫茶という一事に収斂させつつ、周辺の諸事万般も禅思想に貫かれる。貫かれているのだから、茶の世界で発揮される「好み」という現物の思想にもゆらぎがない。そのスキ好みは流行りもの、風俗といったレベルになく、おのれの思想をかけた全人格的なところから発するものである。それが茶碗にも反映されたということである。上述の民芸状態の工人たちは、能くそれに応えたのである。単純で壮大な話しである。
文化的、思想的な共通基盤を欠いた時代からは、百年単位の経過に耐えるものは生まれ得ない。私たちが横目で見ながら逃れられないあの時代の茶碗は、時代をおおう時代精神によって、いわば面から絞り出されるようにして作られ、見立てられたものである。それに比べ私たちは点である。点としても茶碗を作ることはできる。しかしそれは、より歓び少なくむなしいことではなかろうか。孤の歓びが全体に与り得ないのである。筆者は忖度するのである。現代にまで、あの時代の血脈や系譜を連綿しながら茶碗を作り続ける古い家々のことを。彼らもこの時代の空気しか吸えない。創業者の時代の空気は吸えないのである。オリジナルに往きつ戻りつきっと悩ましいことであろう… 有志の人は思っているにちがいない。どこにおれの創作の自由を求めるのか。近代精神にしかリアリティーを覚えない自分は、近代精神を盛るしかないではないか。しかしおのれの青春とも重なり合うその近代精神は、没落どころか終末だ。唾棄したくさえなってくる。どうすればいい。いっそこんな時代の尻押しなど要らぬ。点として終始するか。勝手に明滅していてやろう。しつこく明滅してやる。どこかの誰かがおれを理解してくれるかもしれないし。おれにはおれの真面目と希望があるのだ。アハハハ…
…両のたなごころにおさまるという限定での、碗形や筒形や沓形の要するにBOWL状のやきもの… やはり私たちは茶の方での茶碗を思い浮かべます。数百年にわたって格別なる用いられ方をしてきた陶磁器です。数百年の時間というのは、取捨選択と洗練の時間としては充分なものでした。つけ加えることの終わったものに、何事かをなさんとしてもオリジナルに勝てるのものではありません。しかし時代の精神は、茶碗をかりて盛ることは可能ではないでしょうか? そのような大げさなものでなくとも、作る方も用いる方も、茶碗の既成概念の境界を一歩でも出て遊ぶか、あるいは冒険をしてみるべきではないかと思います。
茶にかなっていてもいなくてもかまいません。手の平におさまるものです。『遊碗』のとらえ方は自由です。よろしくお願い申上げます。作者の方々へ。-葎-