日記をつける
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線をつなぐ
ひとつ。 ひとつ。
寺井陽子
ものつくる人には、薄氷をふむという思いが常につきまとうのではないかと、遠く察することがある。芸術の人なら、根本において自信というものは、ついに持ち得ないのではないかとも思う。作者は不安なのである。ときどきそれを口に出して言う人がある。そんなとき惻隠の情に耐えない。
作者は、あれでよかったのだろうかと、心は乱れに乱れる。 〆切が迫ってきて、だんだん不機嫌になり食欲も失せる。吐き気と頭痛に悩まされる。しかしかろうじて作品はものにした。これでやっと解放されたと思いきや、今度は猛然と心配になってくる。しかしこの心配はおのれの胸の内にしまいこんでおかねばならない。できることなら電話をかけまくって、評判を聞いてまわりたい衝動にかられるが、そんなことをしたら笑われるだけだ… 自分の才能は自分で確かめられるものではない。人はあるようなことを言うが、こんなものいつ枯れるか知れたものではない。本当は自分で自分がおぼつかないのだ。次はもういらないよと言われるかもしれない。言われて当たり前だ。こんなもの人目に立つように麗々しく飾り立てられてあること自体が不思議に思えてくる…
心は千々に乱れ苛まれるのである。その不安。しかしまあそれは彼らに特権的な創作の甘美な歓びとひきかえにということではあるが。
作者というものが救われるとしたら、それはほめられるということによってではないかと思う。いくらほめても信じない人もたまにいるが、作者はほめられてよくなる。ただしほめるほうにはそれなりの覚悟がいる。ほめられるほうは、その言葉にとても敏感だから、ほめるときは本気でほめねばならない。特にまだ誰もほめない作者をひとりほめるとき勇気が要る。ある意味責任を負うということで、それはほめる側にとって恐ろしいことでもある。相手は薄氷をふんでいる人である。心せねばならないのである。
今展の寺井陽子は1972年生まれの若い才能である。彼女も薄氷をふむ人であるなら、ほめられることによって救われたことがあったのではないか。彼女の作るもの自体、薄ら氷の上を行くような、半歩まちがえば美の領域を踏みはずしそうな印象である。それは彼女独自のラインで、作品を画する線は、0.何ミリ単位で失敗と成功の狭間を走っている。これを可能にしているのは天賦の才なのであろうが、ふたたび作者はおのれの才能など信用できない存在なのだ。
まだ誰ひとりほめない彼女を発見して推すのが筆者などの役割であるなら、その最初の場に居合わせなかったことが残念である。残念だと思わしめるものは彼女の力であろうと思う。
2002年の寺井陽子展より
葎
YOKO TERAI
1972 兵庫県生まれ
1995 京都市立芸術大学陶磁器専攻卒
同卒業制作展 市長賞
第2回花のすみか大賞 優秀賞
1997 個展 京都:ギャラリー紅
1998 第4回酒の器創作展 三浦賞
1999 個展 神戸:TORGALLERY
開かれた世代 新人推薦展Part2 京都:アートライフみつはし
2000 個展 京都:ギャラリー器館
日韓交流展 ソウル:Hanjun Plaza Gallery
2001 個展 神戸:TORGALLERY
個展 神戸阪急美術サロン・アートリウム
2002 個展 -律・立するうつわ-新宿、札幌:ガレリアセラミカ
個展 京都:ギャラリー器館
2003 個展 大阪:山木美術
2人展 -もえき- 東端哉子(日本画)と京都:祇をん小西
個展 梅田阪急
2004 個展 京都:ギャラリー器館
個展 大阪:山木美術
個展 東京:空間舎白子
個展 -Elusive Beauty-Santa Fe,USA:Touching Stone Gallery
2005 個展 東京:サボア・ヴィーブル
個展 -Elusive Beauty-Santa Fe,USA:Touching Stone Gallery