最近、しょっちゅう足ぶみする料理屋があって、そこは三十過ぎのお兄ちゃんが店主である。展覧会をお願いした作家の幼友達という縁で行き始めた。安いがうまいのでよく行く。お兄ちゃんがまたキャラクタリスティック(思い屈した純情男)なので、面白がってなじみになってしまった。カウンターは三四人座るともう座れないほどの狭さだが、一方テーブルフロアーはアンバランスに広く、つめれば二十人は座れる。しかしいつも客は少なく数卓あるテーブルは死んでいることが多い。造作もなんとなく変な店である。
これでは続かないのではないかと案じていた。ある日のこと、カウンター越しに煮魚を手渡してもらおうとしたら、煮汁を手にこぼされたので、熱いやないか、ということになった。お兄ちゃんが客より先に酔っぱらっているのである。したたかに酔っていた。なんや君、酔うてるのか。はあ、昨日からずうと呑んでまんね。客は筆者一人で、ちょっと不愉快になったが、彼はそれから強がりを言いながらも、泣くがごとくめんめんと訴え出した。自分は落伍者である。失敗者であるというふうなことを言う。なにやら痛切な響きがあり、それなら当方も失敗者でないこともないと感じ入ってしまい、彼のことは嫌いでないので、同情してしまった。二三日して行くと店は閉まっており一時休業の張紙がしてあった。案の定と思い残念に思った。彼はだれも傷つけないのに、ひとりで傷つくような男である。まあやっかいなタチかも知れない。
料理はそれ自体に作る人のセンスが丸だしに出る。テレビなんかで料理のことを作品だなどと言うのを片腹痛く聞くことがあるが、作る人の高い精神性が如実に現れている料理もある。それに感動することがある。お兄ちゃんの料理もそれに類するもので、店の造作、器使いなどは無頓着というかダメなのだが、それとのギャップが際立つようにして、作るものがものを言っているのである。素材への関心、造詣の深さに舌を巻くことがある。ウンチクを傾けて破綻がない。味つけにおける塩梅も秀逸である。そしてそれをおのれの分際をわきまえるように、まばらな客に廉価で供する。そんな彼が自分を失敗者だと言う。それゆえ筆者を動かすのである。
芸術の人は湧くがごときだった詞藻が涸れることがある。いずれ回復するだろうとあてにしても回復しないのが普通である。あるいはもともと詞藻もなく芸術の人になろうとする人がいる。まあ詞藻があってもなくても成功のおぼつかない世界で、食えればいいというものでもなく、だから芸術の人で失敗しない人などいるだろうかと眺めて思っている。しかしそれゆえ、ふたたび筆者を動かす。不遜な気持ちで言うのでない。惻隠の情に耐えないのである。
くだんのお兄ちゃんは、職人の世界の人だから芸術家ではない。おのれを失敗者だとなにによって言うのか、彼の内奥のことはよくわからない。しかし彼は真摯である。ものを作ることに甲斐と歓びを見つけている。彼は破裂せんばかりの自尊心を抱いているのだろう。一方で青菜に塩のようになることもあるのだろう。トゥーセンシティブな人なのである。そんな彼を見、芸術の人を思い、よしなしことを思って筆者は動かされたのである。彼はあれから潰瘍が破れて、吐血と下血をして入院したが、今は復活して店をやっている。彼と今展の森野彰人は丁度同世代である。関係ないが。
今展では、近頃森野氏が熱中している-光の器-と、色化粧象嵌、銀象嵌などの器を中心に新作が揃います。京風モダニズム漂うビッグサイズの造形作品を軸に活動を続けてこられた森野彰人氏の器展。何卒ご高覧のほどお願い申上げます。-葎-
AKITO MORINO
1969 京都生まれ
大阪芸術大学卒、京都市立芸術大学大学院了
1996 ’96新鋭美術選抜展(京都市美術館)同’98 ’00 ’02 ’05
現代陶芸の若き旗手たち(愛知県陶磁器資料館)
1997 ファエンツァ国際陶芸展
第4回美の予感-工芸-(高島屋巡回)
1998 第5回国際陶磁器展美濃’98 銀賞
’98画廊の視点(大阪府立現代美術センター)
2001 京都府美術工芸新鋭選抜展「2001新しい波」
(京都文化博物館)同’02
2002 現代陶芸100年展「日本陶芸の展開」(岐阜県現代陶磁美術館)
2003 現代陶芸の華(茨城県陶芸美術館)
現代陶芸14人の尖鋭たち-現代陶芸の系譜-(高知県立美術館)
2006 日本陶芸100年の精華(茨城県陶芸美術館)
個展
ギャラリー白
INAX ガレリア・セラミカ
マスダスタジオ
INAX 世界のタイル博物館
コンテンポラリーアートNIKI
赤坂 乾ギャラリー
銀座和光
正観堂
SILVER SHELL
ギャラリー器館