(硝子) 荒木桜子 今井美智 佐野猛 佐野曜子
福西毅
(陶芸) 中村康平
(青銅) 畠山耕治
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いささか旧聞に属することになるが、去年の三月、筆者も知るある陶芸家が死んだ。グループ展に参加してもらったり、仕事場の相談を受けたりしていた。まだ二十八才だった。その死は頓死に近く死の苦しみを苦しむことはなかったように聞いている。しかしその刹那、彼は残念無念であったことだろう。
彼は弱冠にして、そんなに取ってどうするのと思うくらい、国内外の主だった賞を総なめにしていた。どんなものを作っていたかここでご覧には入れられないが、それは、大の男数人をもってしても持ち上がるかどうかの巨大なムクのマッスであった。キロどころかトンはあったのではないか。あれだけの塊になると焼いても焼き切れるものではない。しかし彼は焼くという行為を、窯がワヤになるほどにとことん突きつめていた。その切断面(焼いてから割り削り切断研磨してかたちを決めていた)には生焼けの部分もふくめ焼成の諸様相がむきだしにさらけ出されていた。圧倒的なパワーがこりかたまったようにして実在していた。あるいは破壊といってもよい。全体の印象は美というものではない。しかし美醜を超えて迫ってきていた。破壊あるいは生成へと向かう彼の勃然(ボツゼン)たるリビドーのようなものを見る思いがした。
人の死にはタイムラグがある。肉体的死をもってまづ一巻の終わりとなる。いわゆるお陀仏である。それから社会的な死を死ぬ。一段落ついたら、あとは緩慢に人々の脳裏から消えうせてゆき、ついに誰も思い出さなくなってその人はいなくなるのである。無常迅速である。この世は無常であるという真理中の真理を、私たちは昔の人ほど切実に腹の底に呑みこんで生きているだろうか。彼の場合その瞬間、目覚めただろうか。それを願うような気持ちがある。
彼ははかなくなってしまったが、彼は残し、残した物によりこの娑婆に存在し続けることができる。芸術の人の特権のようなものである。世の常の人は死ねば一巻の終わりであるが彼は違う、一巻措(オ)く能(アタ)わざると云う。彼は彼の理解者によって読みつがれて行くということである。
彼の名は西田潤(Nishida Jun)という。夭折(ヨウセツ)は神に魅入られ祝福された死などと美化はすまい。西田君、やっぱりこの世は生きている人の世の中なのだ。そして昔から人はだれしも恨みを呑んで死んでゆくのである。貴君もそうであったろう。しかし自分だけ恨みを晴らして死ぬことなどできることだろうか。それは出来ない相談である。だから以て瞑すべしではなかろうか。貴君の場合、残した作品が貴君の思いを遂げてくれるかも知れないではないか。貴君はすでにその名をとどめている。作品が此岸(シガン)から貴君を往生させてくれる。筆者のような者から見ればそれは稀有なことに思える。
筆者のみならず多くの者は貴君の続きを見たかった。残念であるが、こちら側、此岸の残念と貴君の残念はしかし、貴君の作品によってまもなく浄化されるだろう。それまでしばらくは残念と残念のお互いさまということで、西田君安らかなれ。
葎
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夏は涼しく冬は暖かに…云々とは利休さんの言葉ですが現代ではリモコンのボタンひとつ押せば、昔の人が夢にも見なかったような極楽にいられるようになりました。
夏は涼しきようにとは人を慮ってのことだと思います。そこには心遣い、深切、工夫、美意識がはたらいていたのでしょう。
そして自分も涼しくなることができたのでしょう…
今展は7人の方々にお願いしました。
茶道具の他に普段使いのガラス器なども出品されます。何卒ご高覧賜りますようお願い申上げます。
ギャラリー器館