柳宗悦の文章に次のようなものがある。彼は朝鮮の工芸品の無為自然のよってきたるところを縷々(ルル)説いている。
『…こうなると人間の考え方では割り切れないものが沢山に残る。人間のする仕事なら何かの型に落ち着こう。だが朝鮮の品物では、人間だか自然だか判らないものが仕事をする…
(例えば品質、材料、仕上がり等の)良い悪いを共に超えた境地から、品物が生まれてくるのである。作るというより生まれてくるといった方が一層当る… 彼等を支えている何かの力が、不思議を演じていることだけは確かである。その「何か」は決して単一ではない。時代や環境や風習や血液や色々なものが結合せられて、本能となって現れてくる。決して個人の力量や智恵に頼った仕事ではない。だが個人は貧しくとも背景が大きい。だから個人では住めない心境に住むことが出来る。それ故個人では果たせない仕事まで果たせる。見ていると大概の場合素直に與(アタ)えられたものに委(マカ)せている。委せることによって物を活かしている。それも委せるという念に委せているのではない。もっと委せ方が純一である。委せるということが何を意味するか、そんなことだに問いはしない… こんな心の状態は定義に余る。どんな人間の物差しも之を測るには何か足りない。そこでは人間以上のものが加わっている。だから人間の言葉では或る範囲までより説明が付かない。不思議なものが内に含まれている。ここがその美しさの泉だと思える…』
抜粋だがここには柳の反近代の思想がうかがえる。もてはやされた浮薄な個人というものを否定している。その思想は筋金入りのようである。植民地の民衆への哀切なる思いも見てとれる。
かつての朝鮮の工人が生み出したものは、そこにあるだけで、図らずして老荘の思想を具象化していたように思われる。海をへだてたわが国の侘び茶の思想にも多分に老荘の思想が盛られていたということがある。私たちの父祖がかの地の工芸に出会ったとき敏感に反応したのには、それだけの素地があったのである。いわばエートスの部分で響き合ったというべきか。高麗茶碗などは深く日本人の心に沁みいり、侘び茶の思想をもっともよく表象してきた。侘び茶の完成を目前にしてあれらの茶碗が舟に舶載されてあったことは、一つの奇跡のように思われるのである。
今展の秋山潤は、鯉江良二のもとに足かけ四年いたあと、’02年から韓国の慶尚南道でやきものをやっている。苦労を覚悟で韓国に渡ったことは彼の選択であり、目的も彼なりに見定めた上でのことなのだろう。高麗から朝鮮のやきものが彼の心を大きく占めているのだろう。
かの地のあの時代のやきものは、一種の魔力のように日本人に対し絶大なる影響を及ぼし続けてきた。今もってそうである。そしてあれらは個人では果たせない、個人の仕業(シワザ)にあらぬ仕事で、いわくいいがたい背景から不思議に生まれ出てきたものであると柳は言う。
秋山にとって朝鮮ということ、かの地のかつての工人に思いを馳せるということは必要である。しかし彼は今に生きる人間である。柳の言うようにかつての工人の心境に住まうことはできないのである。彼はかの地にあって日本人として近代人を生きるしかないのである。個我より発する他ないのである。だから個人として作家としてやる以上、かの地で朝鮮物をやる意味をおのれに定義付けておくべきであると思う。定義付けというか、気構え心構え、なにを腹に据えて作るかということである。なんぼ朝鮮物に肉薄しても最後の紙一重は永遠に紙一重として残ることを了解せねばならない。
鯉江良二は、原子爆弾を極みとする近代精神を深く本能的に憎む人である。その毒たるやおそろしいほどのものがある。毒あらずしてなにが芸術であろうか。その毒は日本人としてのものであるからインターナショナルである。そしてその毒があるからこその裏返しにピュアリティーがある。哀しみがある。その哀しみがあるからこそ鯉江良二は一方で朝鮮物に匹敵するほどのえも言われぬ表現にオリジナリテを発揮するのである。
秋山は足かけ四年も、アンビヴァレントの人、鯉江のところにいたのだから根性もんであろう。なにを学んだのか知らぬが、毒気に当てられ通しではなかったようである。写真の白磁壺などは、当てられ通しでは出来ないレベルにあり、ほとんどの陶芸家がすくいとろうとしてすくいきれない幽(カス)かなるものを、少しはすくえているように思う。哀情多くして詞藻(シソウ)帯びる風情を見せている。すくえるということは、彼にもいっぱしの毒が備わっているということか…。要らぬお節介ながら柳の言う桃源郷は、霧のかなたにすでに消え去っているのだからあまり深入りするなということを伝えたく思い云爾(シカイウ)。
葎
AKIYAMA JUN
1970年生まれ
1999年~2002年 鯉江良二氏に師事
2002年より韓国慶尚南道にて作陶
個展
韓国6回 日本2回
所蔵
韓国利瑛美術館