色即是空とは仏(ブツ)の云うところである。その心は一切は実体を持たぬということであろう。仏教の根本的発生的ドグマである。無常という意味でもあり、いかなるものも一つところにとどまることはなく、真相は、宇宙の絶対質量というようなものがあって、それは増えることも減じることもなく、私たちとて原子レベルの粒子のようなもので、そこらをたゆたい、ただ密になったり疎となったりして、一刹那のうちに結びかつ消えゆくのみであると云々…。あの世という別次元も具体神も考えられていない。死んでも別段なにもない。無であると。こんなことを説いた人はかつてなかった。仏はそのように垂れて、生老病死のわずらいや恐怖から離れよと説いた。煩悩にとらわれ振りまわされるなとも言う。
しかし煩悩熾盛(シジョウ)の凡夫にしてみれば、頭ではそう思えてもこれはあんまりな教えではある。できない相談ではないか。当の仏が死ねば教えのリアリティーも弱まる。そこで仏教が大乗化していき、方便として浄土などという概念が出てくる。遠ざかるリアリティーを実感したくなり、偶像をまつったりする所以(ユエン)である。仏は自分が死ねばこの法はすたるだろうと言われたが、人間というものはやっぱり救いがたく救われがたいのかもしれない。
以前酒席で、どこかの宗教法人でも手に入れて新興宗教を作ったら、そのときは堤さん、ご本尊を制作して下さいますかと戯れに言ったことがある。きっと霊験あらたかにちがいない、信者はみな拝みたおすだろうと言うと、彼女も戯れに作る作ると言ってくれたことがある。
堤展子に限らずもの作る人は、なぜ作るのかといえばそれは理解者を求め、成功せんがためということがあるが、掘り下げれば、作ることによって先づおのれ自らを救済し、芸術の人として覚醒してのち他者になにがしかの益を及ぼさんと、彼ら彼女らはそんなこと思っているかどうか…。芸術の行為とは大層なことを言えばそうあるべきものであろう。もっとも自らを助く以前に自滅する人のほうが多い。自らを助くということは難題中の難題である。他力本願の親鸞(シンラン)でさえ言っている。どこまでもエゴイスティックな自分というものに目覚め、自力の計らいを捨てなければ(これも難題)阿弥陀の摂取不捨にはあずかれないと。それほど阿弥陀の救いとてイージーに得られるものではなく、有り難いというほどの意味が本当であろう。ナモアミダブツと唱えさえすればOKという問題ではないのである。
堤の作品の一貫して示すところは、お構いなしの押し出しのなかで脈々と作品に寓される深い哀情である。ヒリヒリとした哀しみをそのフィギュアに、茶碗に感じることがある。高麗茶碗のショウジョウとした、ものさびしげな趣きとは全然ちがう。失礼を言うのではないが、道化役者がおどければおどけるほど見物に催(モヨオ)させるそれである。被虐的な風情のようなものも感じる。それは彼女の独壇場であり、作家としての真骨頂でもある。
現代ともなれば創作とは全き自力の世界である。堤の作品は、自らを救おうともがき苦しみ、奮闘努力する堤自身を映しているように思われる。それはある種の毒気を含む。彼女一流の毒気と言ってよい。その毒に反応して見物はおのれの毒を発見し中和することがある。あるいは心中ざわつかさせられる。堤は私たち同様、いまだ自らを助けられてはいないだろうが…。おそらく死ぬまでそうだろう。だからせいぜい悩ましく気のふれない程度にやって行ってもらいたい。それは彼女にとっての宿業的作業なのである。そしてその作業が、作品が、他者にとっての安堵や慰め、あるいは覚醒のための媒介となって裨益(ヒエキ)するならば、作り甲斐があるというものである。そのことを彼女は自分の甲斐性、おのれのなせる他者への最大の利益(リヤク)としてよいのだと思う。 近頃彼女はブディズムのことを考えている様子で、当方もそれに触発されてしまいまして云爾(シカイウ)。
葎
Nobuko Tsutsumi
1982 大阪芸術大学工芸学科陶芸専攻卒
1983 京都市立工業試験場窯業科本科卒
1986 「土・イメージと形体1981-1985」東京、大津西武
1987 「アート・ナウ」兵庫県立美術館
1994 「クレイワーク展」国立国際美術館
1996 「国際陶芸アカデミー会員展」佐賀県立美術館所蔵
滋賀県立陶芸の森
プラハ国立美術館
個展
ギャラリーマロニエ(京都)
ギャラリー器館(京都)
ギャラリー白(大阪)
黒田陶苑(銀座) etc.