出展者
青木挙 浅野哲 伊藤秀人 植葉香澄
内田鋼一 馬岡智子 奥村博美 梶なゝ子
片山亜紀 加藤委 金重有邦 兼田昌尚
川上智子 川端健太郎 金憲鎬 鯉江良二
小松純 崎山隆之 佐藤和彦 杉本太郎
鈴木卓 田嶋悦子 竹内真吾 丹波シゲユキ
堤展子 新里明士 福本双紅 堀香子
松田百合子 三原研 村田森 森野彰人
安宮せい子 山田晶 山田和 柳原睦夫
今の世、何とか治まっている御世だと言えば言えそうだが、もの言いたくてうずうずしている人が多いようである。人のことは言えないが、酒など入るとたちまち悲憤慷慨の士に変ずる人がいる。うっぷん晴らしである。風流な人から見れば野暮なやつだということになる。なかにはいいかげんにしてくれと、止めどがなくなる人がいる。いい人なのであるが、日頃言いたいことがうず巻いて腹のふくれる思いをしているのだろう。あんたは結局なにが言いたいの?と言ってみたくなることがある。
とはいえ本当に言いたいことなど人間そんなにあるわけがない。これだけは言いたいと思うことである。筆者などよくよく考えて、ひいふうみいようと指折り数えてみてもそんなにないことがわかる。あとは些事である。ヴァリエーションである。本当に言いたいことはと言えば、師も曰く、正義と聞けば気を付けよ、満つれば欠くる、機械あれば必ず機事あり、平和のときの平和論、春秋に義戦なし、ない袖は振れず、は蛇足で、など々である。まだもう少しある。我が内奥をのぞき見れば人間というものはいやなものだなあ。ただし思想になどにはなっていない。ただ電気の走るように思うのみである。
芸術の人にだって本当に言いたいことがあるはずである。なければなるまい。それがなんであれ結局はそこの表現である。そして芸術を嘯くかぎりは、その表現に詞藻をまとわねばならない。美をまとわねばならない。毒を含まねばならない。個性なるものを打ち出さねばならない。オリジナリテを。抽象という行為を通して。このようなことをすなる人種は、やはり選ばれた人たちなのである。うつつのときでも夢を見る能力。インスピレーションというものを本然的にそなえ持っている人種とでも言おうか。
本当に言いたいことを口走ろうとすると、前後の言葉が追っかけっこを始めて抜きつ抜かれつして、舌までこけつまろびつすることがある。思想になっていないのである。飾ってもの言おうとする。ボキャブラリーとレトリックの貧なるが故ということもある。芸術の人の困難もそれに似て、いやよりずっと困難で、本当に言いたいことからおぼろにあらわれ立つ幽かな、非常に幽かな漠然たるものを、おのれのインスピレーションの網でもってからめ取らねばならないということがある。それの現物化のためにである。さてもおぼつかないことである。からめ取ってしめたと思ってもぬか喜びに終わることはよくあるというより常にあることではないか。そしてでっち上げに終わるか、本当に言いたいことの表出に成功するか、あとは神様にお願いせねばならないような事柄なのである。
ある作者の畢生の作とは、そのとき天佑神助を得て生(ナ)したものであるような気がする。そんな作品は天の出来事のようにしてそこにある。筆者のみならず見物は作者の本当に言いたいことを淵源とするインスピレーションと、なにか虚空にただよう捉えがたい宇宙的なものと、この二つがドンピシャとシンクロしたようなものを見たいと思っている。すなわち天の出来事のようなものと思える作品を欲する。天の出来事のようなものと言っても、なにも素直であれとか作為を否定するという意味ではない。神ならぬ人の作るものである、作為をめぐらし技術をこらさねば幽かなるものの現物化はとうていおぼつかない。芸術の人の内奥にある本当に言いたいことはそれぞれだろうが、それが天の出来事のように現出したとき、そしてそれがものを言ったとき、その作者の畢生の作、あるいは上出来の作となるのだろう。それとの出会いは見物にとっての一期一会となり得る。見物は残酷だから、見るたびにそれが交じっていないかと期待する。見物にも力量が要ることはわかっています。作る人には御免を蒙って、今展のなかにもそれが在るのではないか在るはずであると思いたく云爾(シカイウ)。
葎