猩々緋(ショウジョウヒ)と銘うたれた山田さんの最近の作は、技法的には、赤地黒化粧掻落し手とも言うべきもので、かの磁州窯や李朝に脈絡を通じるもののようです。黒の効いた赤は、シックかつ陰翳を帯び、一種有機的なテクスチュアを見せています。独自のものと 言ってよいでしょう。
今展では、猩々緋シリーズをはじめ、対照的な色あいを見せるプラチナ彩や白化粧のものなど、多彩な器物によって山田晶一流のモダニズムを展開していただこうと存じております。
何卒ご清覧賜りますようご案内申上げます。
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先日ニューヨークへ数日間の短い旅をしてきた。約二十五年ぶりのニューヨークで、街のすっかりの変貌ぶりにただ驚くばかりであった。変貌といっても建物が東京のようにすっかり変わってしまったわけでなく、建物自身は昔とそう変わらずなのだが、その中身はかなり変化したような感じがした。かっては安心して歩ける場所が少なく移動にも気を使わなければならない始末で、夜飲みに出るのにも治安の悪い地域にある面白い店など店の前からタクシーに乗るぐらいしか移動方法がなかったのに、今はかなりの地域で安心して歩けるようになっていた。チェルシー地区というところがハドソン川の近くにあるのだが、かっては夜は5メートルおきに売春婦が立っていて、タクシーの中からおそるおそるのぞいていたような所だった。しかし今はもともと自動車修理工場などが立ち並んでいたところに、それを利用して多くのギャラリーが進出してきており、カティングエッジな場所になってきている。
今回は半日を使ってニューヨーク在住のアーチストの方と一緒にギャラリー巡りをしてきた。さすが世界のアートシーンを代表する場所だけにそのスケールとその数に圧倒されっぱなしであった。個々のギャラリーは、それぞれの特色(アーチスト)を出してしのぎをけずっている訳だが、ギャラリーをいろいろ巡っていくうちに、一つ僕なりにある共通点があるのではないかと感じた所があったのでとりあげてみたい。それはライティング、つまり作品の光の当て方である。日本の画廊の場合ほとんどライティングは陰影をつける。つまり陰の存在が重要になってくる。ところがニューヨークのギャラリーのライティングは主に外光で光をフラットにまわしているのでここには陰の存在はない。なぜかと考えているうちに作品の60%が写真の作品であることに気がついた。
つまり、今の現代美術の世界では作品は完全に記号になっている。だから陰の存在など、記号を見せるのに不確定な要素は不必要なのだ。古く日本では茶ノ湯に見られるように一つの障子からの光を楽しんだ。ここには影の存在が大変大きく場の雰囲気に影響したのだと思う。ところが今はインターネットの世界。ここはまさに記号の世界。子供たちはこの世界だけがリアリティーになっている。この子たちが大きくなったとき、いやすでに今二十代の若者たちのなかには陰影などを楽しまない人種が存在してるののではないか。アニメやバーチャルの世界だけが彼らのリアリーティーになっているのではなかろうか。
僕の世代は元祖オタクの頃らしいが、あの頃のオタクは今にくらべれば両生類でオタクになりきっていないオタクである。まだまだ陰影を楽しむし、味も侘び寂びもわかっているつもりだ。
全てが記号で説明される世界には違和感を覚える。特に陶器の場合、人間が制作するのであるが、土という全くの自然物を使い、窯という工程、つまりガスにしろ薪にしろ焼くという自然の行為を通ってくるため、割り切れないところを背負い込んでいる。これが見る人に安心感を与えたり、また作り手もそれに手こずりながらも自虐的に制作行為に喜びを得たりしているような気がするのである。だが記号は僕たちの身近にどんどん進出してきている。この日本の古都京都の町中にも、グッチやエルメスなどといった記号が多くの女性を魅了しているではないか。山田晶記