佐加豆岐(さかづき)の展Ⅲ 出展作家
浅野哲 伊藤秀人 内田鋼一 岡本作礼 隠崎隆一
金憲鎬 佐藤敏 杉本太郎 新里明士 西村芳弘
福本双紅 丸田宗彦 村田森 山田晶 吉田明
世間には酒の好きな人、嫌いな人、飲まない人、飲めない人と色々だが、これらとは別派に、酒を飲むことが必要な人もいる(アル中の人はしばらく措いて)。その人たちは酩酊することが目的というよりも、酒をある種の触媒として、服用するように飲んでいるようだ。すなわち酒でもって遠い記憶を呼び寄せたり、日常的な思考の枠の外へ出たり、インスピレーションや霊感のようなものを得たりと、まあ酒精のお陰をこうむるのである。そういう人は酒毒が五臓六腑にまわるのを承知の上で飲む必要があるのだろう。これは逃避というものではないように思われる。
芸術の人にはそのタイプがいて、筆者の知る範囲にもそういう人がいる。死にはせぬかとドキドキさせられる人がいる。破滅型という訳ではないのだろうが、あれはやはり苦しがって飲むのだろうと思う。芸術は清く正しいばかりではそもそも芸術たりえず、かといってモノ作る人ならまじめに決まっていて、そこに創作というないものねだりが関わる以上、素面で芸術などやっていられるかというところかも知れない。すぐれたものを作る人はその心中に本当に云いたいことを秘めている。それは日常の現実などではなく、もっとなにか浮世離れしたものである。非常にかすかなものである。キチガイじみたものかも知れない。そこに近づこうとするわけである。酒がそのとば口までいざなってくれるのだろう。飲まずにはいられまい。
人は何か、何でもいいのであるが、溺れる事のできる対象を求めて生きているとも云える。日常からの逸脱を求めて。それが絵や文学や音楽であったり、やきものであったりすることがある。その他酒、女、男、革命、博打でもいい。それらは、まあ革命は別としてすべて具体なものである。観念的なものではない。芸術のことを云えばだから、芸術芸術と観念的なことばかりを脳蓋に詰め込んだとしても、惑溺ということは起こり得ないのである(そんなことはそれをメシの種にしている評論家あたりにまかせておけばよい)。そして惑溺のないところに芸術の必要性などもない。芸術を口にするなら、また呈示するなら、個として何に惑溺できるかが問題なのではないか。そこがなければその作品や評言は信用できないということになりそうである…
酒毒に耐え、なけなしの詞藻を切り売りしながら、あっぷあっぷの溺れかけで物作る人がいると云ったが、そのような人などは信用できるのである。
しかしもう少しご自愛のほどを。
葎
盃を上げる、傾ける、重ねる、貰う、返す
盃とは、酒を湛える器のことです
ぐい呑、猪口、
茶方では陶製のものを石盃とも云います
一杯一杯また一杯…
人を酔境へ誘い、一場の宴を演出し、
あるいはしみじみ無聊を慰む
宗廟祭祀に用い、
また契りかための盃、今生の別杯とは、
人生の最も張りつめた時に交わす盃事です
故にこの小品には、しばしば作者の魂魄の
こもることがあるのでしょう
何卒ご清覧賜りますようお願い申上げます