加藤委とジミヘン
加藤委は別格である。
かつて、天才ギタリストのジェフ・ベックがジミ・ヘンドリックスの演奏を初めて聴いて「地球の人とは思えない」と言って驚愕したという逸話があるが、加藤委は焼物界のジミヘンである。
ジミヘンはギターを生き物のように操り「ギターは爪弾くもの」という既成概念を根底から覆し、その表現方法を宇宙人的に拡大した。彼の楽曲、演奏は40年を経た今も輝きを失っていない。同様に今、加藤委も表現としての焼物のフロンティアを飛躍的に拡大させている。
素人の独断と偏見だが、大半の焼物は、結局のところ相変わらず「静物としてのフォルムの中に幽かな動きを入れる」という箱庭造り的アプローチと、古典の趣味的解釈展開に止まってしまっているように思われる。それはベックやクラプトンが、黒人のブルースを躍起になってコピーし、お上手に毒気を抜いて演奏していた状況にも似ている。まあ、どちらの場合も、ファンはそれに対し歓喜の涙を流してはいるのだが… そんな世界に、ジミヘンが忽然と現れ皆の度肝を抜いたように、加藤委も突如舞い降りてきて「動いているものの一瞬を定着させた結果がカタチとなる」という全く逆の発想で焼物を作った。虚飾を取り払ったアスピリンスノウのような純白土と青味の透明釉が、流れ、歪み、切れながら「死」を乗り越えるが如く崩壊と紙一重のところで踏み止まることで、驚くべきダイナミズム、精気そしてその対極の穏やかさをも内包する作品として結実する。見つめていると思わず涙が滲み、魂が浄化されるような清冽さは他のどの作家とも違う。グサリと心に突き刺さる。その神々しさは、作者も作品も命懸けだからなのだろう。
ただ、それは斬新な発想や、包丁振りかざして土を切る向こうっ気だけで出来てしまうような簡単なものではない。捨て身のようでありながらぎりぎりのところで土と向かい合える高い技術、繊細さ、集中力、そして土への謙虚な姿勢と表裏一体である。また、同時にそれは彼の遺伝子に染み付いたアーティストとしての美意識の賜物でもある。加藤委の作品には、中国、李朝、桃山、現代の焼物の魅力にとどまらず、焼物以外の芸術や自然までもが「元素」レベルまで消化・分解されたうえで再構築されている。これらの「元素」は作品の「空気感」にまで昇華されて作品の中に息づいており、それが彼の作品の「品格」となっている。これも、ジミヘンのブルースへの深い造詣、高い音楽性が、ギターを歯で弾いたりぶっ壊したりしながらも、彼を「キワモノ」にしなかったのと共通している。破調でありながらメインストリーマーなのである。
そんな峻厳とした作品を生み出す彼だが、一方でものすごく温かな人でもある。方言丸出し、本音丸出しで良い酒を飲む。命がけで生きているからこそ、人と出会いつながることの掛け替えのなさがちゃんと判っている。
今回の個展は薪窯の焼締めでやる!!!とのこと。工房移転を前に、この20年の川小牧で自分を育んでくれた母なる窯と人とこの地の土への思いとして、また今後に向けて自己の原点を再確認する作業として、真っ向直球勝負をしておきたかったのかなと思う。そんな彼の気持ちを思いながら、新しい作品に向い合いたいと思う。
ところで、彼の本当に凄いところは、こんな俗人のメローな思い入れなど軽々と飛び越えて、我々をノックアウトしてくれる作品を創り出すところなのです…
何が出るやら!!!請う御期待。
玉井真一郎 コレクター 松山市
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加藤委展は今展で4回目となります。
彼にはあの青白磁のシリーズと共に、穴窯焼成の土ものによる作品群があり、どちらもいわば、造形の危うい橋を渡り切ったような、彼独自の境地を示しています。
彼のキャリアもすでに二十数年の長きに及びます。
その間、創作への疲れを覚えるときもあったことでしょう。しかしここに掲げた文章を草してくれるような理解者との邂逅を得て、意を強くすることもあったに違いありません。
今展でも、彼はその天賦の才と気概でもって危うき橋を渡り切って見せてくれると思います。
何卒ご清覧のほどをお願い申上げます。