古人は天と地の間に新しきものなしと言っている。そうであろう。新しいものはつねに古いものをマネて出てくるということが言えるし、天地万物の創造というか、神による世界創造(だれも見たことのない)にくらべれば、人間の「つくる」という行為など、すべてなにかのモノマネに行き着くのではないか。芸術における創作であれ本質的にモノマネ行為である。芸術の人がつくるものは、無からの創造だなどと言っても、それらはあくまで仮象や絵空事であるわけであって、言ってみれば何かを映し出す鏡のようなものにすぎないとも言える。どこまでもフィクションである。「うそ」が含まれるということである。総じて芸術家という人種は、自然や万物あるいは人間生活の実相からおいしいところを拝借し、うそもこき混ぜたマネごとによってものなす人たちなのである。当り前のことかもしれない。しかしこんなことを言うと反射的に抵抗を示す人たちがいそうである。芸術イコール創作ということが言われて久しいが、イコールと思い込みすぎて、なにか特権的な意識に安住したり、または要らぬ苦しみを苦しむ人もあるわけで、やはり芸術も本質的にマネごとであるということを不承しておくべきではないか。芸術模倣説である。ついでに言えば芸術は、むしろ虚業でもあるから、芸術虚業説だってあるぞと言いたい。
陶芸の世界を眺めているとほとんどのものに既視感を覚える。しかしこのやりつくされた世界である。しかたがないではないか。個性はおのずから備わるものであるとか言って、表現表現と作る人をけしかけてもそれは酷というものである。作る人は古人のなしたことをなぞるか、表現の「余地」を求めて表現されてあるものの間隙を縫ってゆくしかないのである。その上でつけ加えることのできるものに気づき、つけ加えることに成功すればそれは稀有なる僥倖だろう。そのつけ加えるものも、どこかから引っぱってこなければならない。ぱくってこなければならないのである。
とはいえ新しい人の新しいものに刮目(カツモク)させられるということがある。そんな時はあらためて一面識を得るような、どちらのどなたさんでしたかと、忘却の彼方の人にたずねるような気持ちでその作品を見ている。それはただ何かをなぞったようなものでもなく、何かのエピゴーネンでもないものである。今展の川端健太郎の作もそのようなものだったと思う。何に取材したのか、どこから引っぱってきたのか、ぱくってきたのか、にわかにはわからないようなものである。既視感ではとらえ得ないものとして登場するのである。そして彼のような人は、芸術の仮象の鏡を持っている人かも知れないと思うのである。その鏡は鏡ゆえになんでも映し込むことができる。その万能性において神の世界創造と通じるものがある。しかしその鏡に何をどのように映じさせるかということには非常な困難と抵抗が伴う。そのような鏡である。人は皆マネッ子ではないかと我を顧みて思っているが、彼の行為などは無自覚に無抵抗になされるモノマネ行為ではないということであろう。
川端の作は、昆虫的オーナメントを冠して異形なあやしい姿をしている。人の眼を近づけしめ、手を伸ばさしめる存在感を放っている。細緻な美がちりばめられている。芸術の行為とは、神のなした天地万物の創造のマネごとであるなら、川端のものはその一断片をマネてオリジナリテを示しているのではないかと思い云爾(シカイウ)。
葎
Kentaro Kawabata
1976 埼玉県生まれ
2000 多治見市陶磁器意匠研究所修了
2001 織部の心作陶展 大賞
2002 益子陶芸展 審査員特別賞
2004 同展 加守田章二賞
2007 パラミタ陶芸大賞展 大賞