▼出展作家(五十音順)
秋山陽 Yo Akiyama
浅野哲 Satoshi Asano
安藤郁子 Ikuko Ando
植葉香澄 Kasumi Ueba
内田鋼一 Kouichi Uchida
奥村博美 Hiromi Okumura
加藤委 Tsubusa Kato
岸映子 Eiko Kishi
北村純子 Junko Kitamura
清水六兵衛 Rokubei Kiyomizu
鯉江良二 Ryoji Koie
近藤葉子 Yoko Kondo
崎山隆之 Takayuki Sakiyama
櫻井靖子 Yasuko Sakurai
神内康年 Yasutoshi Jinnai
鈴木卓 Taku Suzuki
田嶋悦子 Etsuko Tashima
堤展子 Nobuko Tsutsumi
寺井陽子 Yoko Terai
長谷川直人 Naoto Hasegawa
堀香子 Kyoko Hori
松本ヒデオ Hideo Matsumoto
三原研 Ken Mihara
森野彰人 Akito Morino
柳原睦夫 Mutsuo Yanagihara
山田晶 Akira Yamada
世の中には立派な賞をもらってかえって評判を落とす人がいる。関係のない者にまで忸怩(ジクジ)たる思いをさせるような授章がある。当人のみならず斯界(シカイ)の評判だって落ちるのかもしれない。
例えばそれが「わが国の芸術文化の発展に寄与し勲績卓絶な者」に対して国が与えるような、そのような賞の場合、その話題はマスコミにも取り上げられ、世間の注目を集めることとなり多少の騒ぎになる。その人の作品がさらに広く世間に知れわたる。そんな時、わがことのように早くほとぼりが冷めてくれないかと思うことがある。べつに賞すべてが清く正しいものとは思ってもいないし、この世は義理と人情からなっていることも知るが、しかしその人の作品がびっくりするほどなさけない場合はどうすればよいのか。どう得心すればよいのか。間違って行ってしまったのか、あるいはあげる方の無知がこのことを招くのか、どうであれ見物としては、かすかにあった賞への信頼が裏切られたような幻滅を覚えるのである。なけなしの純情を嗤(ワラ)われたような気持ちである。筆者のような零細業者でも、自分が衣食する業界というか、ジャンルにそのようなことがあると、やはり気分がむかついてくるのである。どうでもええわと思えばいいものを、これもつまりやきものに対する身贔屓(ミビイキ)ゆえの感情かと思われる。その人は作品よりも賞をたぐり寄せるということに、あくなき精力と特殊な才能を発揮する人なのかもしれない。しかしその賞がある方面への営業には役立つとしても、おのれの正味と賞との落差に生涯悩まされることはないのだろうか。過去の、花も実もある受賞者たちと同列に並ぶのはいいが、彼らが夢枕に立つことありやなしや。世間には目のある人間だっているぞ。いや、そんなヤワな神経の持ち主でもないのかもしれない…。おぬしもワルよのうと言われたらガハハと笑うだろうか。
賞というものは怪しい。魔物である。賞もいろいろで、衆目の一致する賞、独りよがりの賞、意表をつく賞、清い賞、苦心惨憺の賞、政治臭紛々たる賞、魂を売らねばならぬ賞と多彩である。そしてもらう見込みのないうちは賞なんかどこ吹く風といった具合で、好き放題を言っていられるが、一旦もらう見込みが生じると、人をして豹変(ヒョウヘン)せしめるのが賞というものである。誰しもそうかも知れない。ある人から聞いた話だが、その人のお師匠さんは芸術院会員になれそうだと聞いて、もうこうなったら撃ちてし止まむだと、だれさんにいくら、かれさんにはなんぼ渡したらいいだろうかと聞いてまわったそうである。そしてめっぽう配りまくったけれども、もう少しというところで力尽きたそうである。残念がることしきりだったそうだが、筆者はそれを聞いてこの人はいい人だなあと思った。配り先をあけすけに聞いてまわるなんていい人である。豹変してもなお、それは表層に止まり、かつ正直である。そういう卑しからぬ人もいれば、みっともないというかずるい変節を見せる人もいる。さんざん国の悪口を言ってきたのに、ちゃっかり位階勲等をもらって悦に入る人がいる。それまではあんなに進歩的なことを言っていたのに、陛下の親授を受けたりするのである。何のかんばせありてかまみえん、と言いたくなる。それが知識人や政治家の場合、上述の彼(カ)の人なんかより、その所業においてはるかにタチ悪と言わねばならないのではないか。
やっぱり賞は魔物なのである。異なものである。いったん見込みが生じたらヘナヘナになるのが人の常ということである。できればもらう方よりもあげる方にまわりたいものである。しかし賞というものは、やはりあるべきなのだろう。報道されない事実が存在しないように、無名の人もその存在をいまだ知らされないのである。それを事実が露見するように人々に知らしめるというジャーナリスティックな役割が賞にはあろう。才能はそれを待っているのである。そして賞がその人と才能を救うこともあるのである。理想を言えば、もっと、何ものからも自由な、しかし権威のある、そしてときには出し惜しみをするような、そんな信用のおける賞が多くあってほしいと思う。そのような賞が少なすぎるように思われる。よくまあ年ごとにそんなにあげる人がいるなあと思うのである。
彼の人の獲得した賞は文化勲章である。元より御免蒙ること不可と承知乍ら、是非もなく、有り体に陳べたき心押さえがたく思い云爾(シカイウ)。-葎-
●第十三回掌中のかたち展
富本憲吉は、あの模様から模様を作らずという信念と同様に、ヴェスル=器物の形も人為のものをまねたものでなく、自然からの真の取材を元にした造化の妙が伏在されていなければならないと言っています。それをつぼみか開き切るまでの花卉の開花にたとえて言っていたそうです。
刹那一瞬を捉えた得たような陶磁器のフォルムがあります。それは技法に限らずです。それらは、そこにある形から何か次なるものへと変容していくような、メタモルフォシス的な契機さえはらんでいるようで、見る者のイメージを飛翔させる力を放っています。
今展では、壺から皿までのフォルムのなかでそれを表現していただければと、作家各位にお願いを致しました。何卒ご清覧賜りますようお願い申上げます。