信楽は万葉のむかし、紫香楽と優にゆかしい字が当てられ、ときの聖武天皇が離宮造営をこころみた土地でもある。その離宮は紫香楽の宮として完成して式典まで挙行されたらしいが、中央政権の混乱により無人のまま打ち捨すてられる運命となる。8世紀中頃のことである。このときすでに陶業おこり、瓦や農具が焼かれはじめたらしい。あの山深い地に本気で都を移そうというもくろみはなかったと思うが、なにかこの地に秘められた潜在能力のようなものを天皇は見ていたのかもしれない。まわりは全山陶土である。
もし紫香楽の宮がいとなまれていたなら、それはこの地が鄙(ヒナ)ではいられなかったということで、信楽焼もまったくちがった様相を展開していたことだろう。農民が無心のうちに作ったようなものではなく、支配者側の需要に応じた、例えば三彩のような、施釉もされた多分に鑑賞陶器的なものが作られていたのかもしれない。そしてそれらが信楽焼として今に伝えられていたのかもしれない。
紫香楽宮の運命は残念といえば残念ではあったが、しかしおかげで信楽の山里はその後ながく陶にとっては手つかずの桃源郷であり得たのではないか。今に残る壺、カメ、種壺、蹲(ウズクマル)といった古信楽は、見れば個人が果たせるような仕事ではない。個人の力量や作意を超えた、なにか不思議な力に尻押しされて生み出されたもののように思われる。その力とは時代であり、自然や地理的環境であり、習俗であり、そこに棲む人たちの血でもあるのだろう。それらが玄妙に結合せられて、本能となって現れたのが古信楽のような気がする。そしてこのようなものは二度とは現れないはかないものでもあろう。いわば外部によって平穏が乱された瞬間に消え去るようなものと言えるのではないか。手がつけられた途端にピュアリティーを失う無菌状態がそこにあるように思われる。
室町期に侘び茶の美意識がそのピュアリティーを発見して以来五百年になる。紹鴎(ジョウオウ)も利休も信楽を深く愛し茶器を作らせたりした。これとて犯すべからざるものへの侵犯と言えなくもないが、古信楽から侘び茶草創までの系譜に、信楽焼本来の真骨頂が見られるのではないか。その後は取り立てて言うべきものはないだろう。近代に入って大量生産の一大基地となり高度成長期にはかつてないにぎわいを見せた信楽であるが、今を見渡せば、ご多分にもれず夢からさめたように廃れてしまっている。タヌキの元気もなさそうである。満つれば欠くるということか。信楽に限らず、その地が桃源郷であり得た時代のものを追いかけてみても、それは逃げ水のようなもので近づくほどにむなしいものがあろう。かつての陶人の満腔(マンコウ)に横溢した不思議な力は今に望むべくもないのである。それは近代以降のインダストリアルな事柄についても同じことである。
今展の加藤隆彦は、その夢茫々たる今の信楽に生まれ育った。彼は夢から覚醒した人であろうか。覚醒しているはずである。焼〆陶にはやきもの特有の甘えがつきまといがちである。そして無自覚に易(ヤス)きに流れている作り手のいかに多いことか。そのなかで彼は気を吐いている。そのことは彼の作品から頭の中で焼きと自然灰を取り去ってみたらわかることであろう。現代ともなれば、もうこれあるかなといった風情の信楽焼などあまり見たくはない。加藤には信楽の内に閉塞するのではなくその歴史は携えつつも、外から信楽へ向けて矢を射るような作品を期待したく思い云爾(シカイウ)。
葎
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Kato Takahiko
1952 信楽生まれ
1970 京都市工業試験場陶磁器研修科了
70年代に各地の陶業地を巡る
1988 穴窯を築く 以降も穴、登りを数多く築く
1993 日本伝統工芸展
2000 秀明文化基金賞 受賞
2003 日本工芸会正会員
2006 日本陶芸の伝統と前衛(仏国立セーブル美術館)