青木良太はいま売出し中の若手である。今回の展に際して彼の信条のようなものを書いて寄こしてくれた。意気軒昂なる内容である。彼は言う、〝古人の跡を求めず古人の求めたるところを求めよ〟という言葉をおのれに課して作って行きたいと。古人の精神とは昵懇(ジッコン)でいても、残されたものを単に写したりなぞることはしたくない、しないぞということであろう。あっぱれな心意気である。彼は彼自身の、かつての楽や織部のような「今焼」を実現しようと燃えている。しかし一方で畏れるかのようにこんなことも言う、「僕は勘違いしながら制作して行きたい」と。勘違いに終始するかも知れぬという不安か開き直りか、彼の複雑な部分が垣間見られる。ただ単純なだけの男ではないのである。芸術の人というのは何度も言うが不安な存在なのである。これを見よどうだ!という気持ちの裏で、弱気と不安につきまとわれ、苛まれる存在なのである。自己嫌悪と自己否定である。しかしたいそうなことを言えば、そこからしか止揚(アウフヘーベン!)されたものは出てこないのである。
たしかに彼の言う通りである。私たちはときには古人の求めしところを求めねばならない。古人は今人と違ってもっとなにか一大事で、大いなるものを求めていたような気がする。孔孟老荘、ギリシャローマに人間の知恵と精神的営為は尽くされているのだろう。二千数百年前にである。これらの土台あっての今日の世界文明と諸文化である。それに比べれば卑近な例かもしれないが、あの長次郎茶碗にも、ある種ユニヴァーサルな、人間の思惟の及ぶぎりぎりのところのものが結実されているのではないか。それは利休という一個の巨大な精神が凝縮され現物化されたものである。あらゆる否定のはるか彼方に、絶対肯定の一焦点のような風情で憎らしくもあの茶碗は実在している。ではその利休の精神の依って来たるところのものは何かといえば、仏教思想であろう。利休はブッダの後裔としての人生を実践しつつ、芸術的境地に遊んだのである。勇気を要求される内面的冒険を不断に敢行し、そして切腹までしてしまったのである。その後の日本人の精神文化の様相を決定づけるような、空前のアヴァンギャルドだったのではないか。
しかしながらアヴァンギャルドも偉大な精神も、その人が死んでしまえばそれきりの、一回こっきりのもののような気がする。ブッダも利休も自分が死ねばせっかくの教えも行いも廃っていくだろうと言っている。そのように諦観していたのだろう。連綿し難いのが精神文化なのである。精神には形がない。ケータイや原子爆弾のようなものはいったん作ってしまえば、あとはいよいよケータイや原子爆弾となって行くが、精神の方はそうは行かないのである。それなのに私たちは弊履(ヘイリ)のごとく捨て去って顧みないのである。私たちは教育にその無残を見ている。師弟という人間関係も消えてしまった。私たちは仏陀や利休など過去の聖賢たちの正統嗣子たるにふさわしい何物も持たないように思われるし、そうとすれば私たちはそれらを否定あるいは首肯する能力も資格もないということになるのである。アウフヘーベンもくそもない情況なのではないか。
なにか青木に対してえらそうな身もフタもないようなことで恐れるが、いつもの口吻だと思っていただきご寛恕(カンジョ)願う…。しかしブッダも利休も自分が死ねばあとはダメだろうと、実際そうで言い当ててはいるが、お前たちはこの屍を乗り越えてさらなるものを求め高めよとも言っているようで、下駄を預けるような気持ちもあったのかも知れない。私たちは一から始めねばならないのかも知れない。私たち自身が建設すべきなのである。破壊をともなってもである。ご先祖様か父祖の血が騒ぐことがあろう。若い青木が内心抱くところのものを筆者は徳としたいと思うのである。
葎
Ryota Aoki
1978 富山県生まれ
2002 多治見市陶磁器意匠研究所修了
テーブルウェアーフェスティバル 最優秀賞、
東京都知事賞
朝日現代クラフト展 奨励賞
2003 高岡クラフト展 銀賞
2004 Sidney Myer Fund International CeramicsAward
(オーストラリア) 銀賞
Ecole de arts decoratifs(ジュネーブ)に研修生として招かれる
2005 高岡クラフト展 グランプリ
International Triennial Silicate Arts(ハンガリー)
テーブルウェアフェスティバル 優秀賞
国際陶磁器展美濃 銅賞
Lifestylist of the Year 2005
2006 テーブルウェアフェスティバル グランプリ