今回で奥村博美の展は何回目になるだろうか。にわかには思い出せない。すでに格別の厚誼をいただいて、二十数年いや三十年近くになる。彼は昭和二十八年京都に生まれ、五十三年に京都芸大の大学院を出ている。在学中は八木一夫藤平伸近藤豊の馨咳(ケイガイ)に接している。院修了の翌年、京都府の亀岡で仕事場を持つ。この十数年はある大学に奉職している(残念ながらと言うべきか)。今年は昭和八十三年である。わざわざ換算しなくともよいのだが、昭和にもの心ついた者にはその方が親切な場合がある。さきの天皇崩御を機に新聞などいっせいに西暦になったことが思い出されるが、あれは何か下心あってのことかと疑われる。とまれ、今年という年を昭和にシフトしてみると、奥村との事柄がより濃密に、はるけきものに思われてくるのである。
昭和五十六、七年に彼の作るものと当方の目との出会いがあったわけである。当時はオブジェも容れた現代陶をあつかう店は京都でも二三軒しかなかった。そしていまだ目の出来ていない当方は、どうしたらいいものかと焦点も定まらずキョロキョロしていた最中で、ただ次の八木一夫的な人を探し求めていたような気がする。それは生きている人でなければならない。そんなときに奥村の作るものが当方の目を射たのである。ああ、同世代でこういうものを作る人が、近くに現にいてくれるのならなんとかこの稼業もやっていけるのではないかと安堵するような思いがあった。これは手前勝手の欲である。同時にこの人のものをたくさんの人たちに知らしめたい気持ちになったことも思い出す。
しかしながら、必需の要のないものはなかなか売れるものではないのである。八木一夫のものも認められ実際に売れるまでには相当の時日を要した。八木は司馬遼太郎に言ったことがあるという、自分が大学で教員をやっているのは食えなんだからやと。先人が切り拓いてくれた道があるとはいえ、奥村は当時まだ無名である。無名のくせにすでに所帯を持っていた。注文もないのに勝手に作っては理解者を求めねばならない世界に二十代で入って行ったわけである。糊口をしのぎつつ女房子供に殺されるような思いをしたこともあったのではないか。あの頃は、作品がいくらものをいっていても、売れるということはなにか別世界のことのように思われたものである。双方とも採算のとれる所業ではなかったと思う。デパートで出張展をやって坊主だったこともある。なんぼなんでも坊主とは、あ痛と思いながら腹立たしく思ったものである。これがわからないのか目にとまらないのかと甲斐ない怒りを覚えたものである。しかしまあ興味のないものには、人は洟もひっかけないのだと変に納得したりもしていた。
奥村の作るものにはオリジナリテと芸術的自己同一性がある。余人の望んで得られぬものとして彼には確かにある。それが彼の様々に変遷してきた作品世界に自他を裏切らない一貫性とスケールの大きさを与えているのだと思う。今回の作品もその過去からの連なりの先端に成立しているものであろう。そして芸術の人は、常に最新作にのっぴきならぬリスクをさらさねばならないということがある。その心中を察すれば労(イタワ)しい思いがしてくる。今回のシリーズは皺襞(シュウヘキ)の器とタイトルされ、この数年彼が追い求めてきたものである。難解ということではないのだが、あまり芳しくない評判も買っていたようだ。しかし彼はこだわり、腐心しつづけている。まだ自分の中で終止符を打てないでいるのだろう。何度も言うが見物は残酷である。だからかえって今回が、さていかにあい成るかと残酷な興味をつのらせる。つのらさせるのは彼の器量である。奥村にはその残酷な見物の満腔(マンコウ)の同情を獲得してほしい。当方はそれに便乗させてもらうのみである。彼の作品が購(アガナ)われてほしい。見物に対価を強いるという意味で、購われるということも一つの大きな尺度なのであるから。
葎
HIROMI OKUMURA
1953 京都生まれ
1978 京都市立芸術大学陶磁器専攻科修了
京都工芸美術展 大賞
京都工芸美術展 優秀賞
焼き締め陶公募展 記念賞
淡交ビエンナーレ茶道美術公募展 奨励賞
個展
ギャラリーマロニエ
ギャラリー玄海
黒田陶苑
ライフギャラリー点
日本橋三越
なんば高島屋
ギャラリーにしかわ
ギャラリー器館 etc.