近頃、NHKなどで政治向きの討論会をよくやっている。つい見てしまうのだが、それらは決まって政治家や識者のまわりを一般参加者がとり囲んでいる図である。視聴者参加はいいことだと思う。しかし出てくる人たちがいただけない。大概やかまし屋である。聞けどもその意見は陳腐かつトンチンカンである。言い出したら止まらない。自分は弱者であるという立場だけは確固としているようだ。そしてさもしげな権利顔をして安物の正義をふりかざすのである。出席の識者や政治家が事を分けてたしなめても聞く耳は持たないらしい。かくて理想と妥協が話し合われるべき政治討論会はいつも台無しである。どうして呼ぶのか、どのように選ぶのか、NHKというところもずいぶん怪しい。
つかぬことを言うようだが、共産主義あるいは社会主義はその残酷な実験を終えたはずである。なんでダメだったのか、筆者ごときに理論立てて言うことなどはできないが、かいつまんでなら言えないこともない。まづ生産手段を占有するか否かによって、社会はプロレタリアとブルジョアという階級に分断されているという。しかしこんな固定的な前提は変に思う。誰でもチャンスによって生産手段を占有する方に回るかも知れないし、逆に失う側に回るかも知れないではないか。日本などはその点一番自由である。革命をやって生産手段を国有にすれば階級分裂はなくなり、結果、労働者階級を圧迫する道具としての国家もなくなるという。しかしかならず共産党員や官僚や軍人という階級が残るではないか。かえって国家は強化されるではないか。そして人間不信の絶望的な階級分裂が新たに生まれたのである。かいつまみ過ぎだろうか。結局マルクス主義は人類の福祉どころか、後進国というか遅れた社会に、共産主義や社会主義という名目をつけた独裁国家を出現させただけだったと言えるのではないか。
しかしながら実験はとうに破綻したというのに、社会主義はいまだに正義なのである。社会主義には正義がある。資本主義には正義はない。私有財産は盗みであるという言葉がある。この類いの言葉には嫉妬を正義に転化させる魔力がある。そして人はなにより正義が好きである。くだんの政治討論会に出てくるようなまじめ人間はまずこういうタイプである。しかしまだまだこういう人たちは再生産されるのだろう。共産党社会党傘下の組合員に教育された人間がいま諸官庁の、大新聞のデスクを占領しているはずである。教員にもなっている。げにおそろしきは教育である。実験は終ったがその刷り込みはなお消えず、なお行われるのだろう。そうしてこの世は半ちくな正義を声高に叫ぶやかまし屋ばかりの世の中になっていくのだろうか。そうなればもう衆寡敵せずである。この人たちのエートスと付き合っていくのか、あるいはどこかへ遁走するか、迷いとともに心のすさむ思いがしてくるのである。もうあの手のテレビ番組は見ないでおこう。
杉本太郎の展は今回で三回目となる。彼の日常は大自然に溶け込むようなものであるらしい。飼っている狼犬と一緒に川を山野を渉猟する。狼犬が鹿を捕まえることがあるという。畑も耕しているらしい。ワイルドライフである。彼のような自然の秩序にどっぷり身をまかせている人は、時代や人為のなにかに精神を左右されること少ないだろう。うらやましいと思えてくる。
今回は被褐懐玉(ボロをまとい玉石を懐するの意)、茶事の懐石を主題に器物を出して下さる。杉本のような爽やかな人の所産をはやく見てみたいと思う。
葎
TARO SUGIMOTO
1970 京都生まれ
1992 京都精華大学美術大学
1999 中日新聞 第6回陶芸ビエンナーレ
2003 スイス カルージュ市賞
2006 京都府美術工芸新鋭選抜展
第6回益子陶芸展
個展
2002 GALLERY SUZUKI
2003 ギャラリークオーレ
ギャラリースペース○△□
ギャラリー三点鐘
2004 ギャラリー器館
2005 ギャラリースペース○△□
ギャラリークオーレ
2006 ギャラリー器館