植葉香澄さんはいま引っ張り凧の新進です。四年前に弊館でお願いした個展が初個展でした。そのあとは引きも切らずの忙しさです。個展には自分で勝手にやる個展と人に請われてやる個展がありますが、彼女の個展はすべて請われてのものです。けっこう有名なスペースからお呼びが掛かります。年に四つも五つも〆切に追われるように作品を発表しています。手の込んだ仕事なのに、彼女は断ることを知らないので、疲れたような顔を見せることもありますが、しかし音をあげません。もの作るリビドーのようなものが太いようです。スリムで器量好しのくせによく食べよく飲みます。柳に雪折れなしのようです。こちらの心配をよそに、押し寄せる〆切もものかはいつのまにか乗り切っていて、果たして彼女は自身も作品も共に大丈夫なのです。このあたりはえらいと思います。
彼女はいま、もの作る人としての青春を謳歌しているのだと思います。作るほどに腕は上がってくる。素材や技法のことで日をあらたにわかってくることがある。イメージが湧いてくる。発見がある、達成がある。そして自分の作るものは見知らぬ人の心を打つのかという畏れと不安。一方でそれを打ち消すように自分のものが購われていくというリアリティー。いろいろな多くの人との出会い。スリリングなことだろうと思います。彼女はいま上りつめて行くような昂揚感に満たされているのではないかと思うのです。
筆者は彼女のような人を見るとうれしくなると同時に詮ないことながら、時間が止まってくれないかと思うことがあります。命短し恋せよ乙女ではないですが、彼女の場合も今がその瑞々しい豊穣の時なのだと思います。あるいはその途上にいるのだと思います。いつだったか筆者は、考えるのはあとにしてこのまま突っ走ればいいのだと彼女に言いました。いつまでもこの書入れ時が続くと思うなという意味を込めて言いました。筆者は芸術の人ばかりでなく、およそ人の才能というものは、はかないほど短いものだと痛感するものであります。上って上りつめて下ってよっぽど長くても〆て十年を数えることは稀だと思います。これは天賦の才能の話しです。才能の奔出というものは短ければ短いほどかえって鮮やかです。そしてそこに一つの達成がなされます。その達成に名声や多少の富がくっついてくることがあります。無名から有名に転じるということです。そうなるとけっこう苦しいことも起こってきたりします。世に認められたものと同じものをえんえんと作らねばならなくなったりします。おなじみのそれを作ってはじめてその人だと見なされます。見物あるいは筆者のような者がそれを求めるからです。天才じゃあるまいし新境地などそうそう出せるものではありません。出そうとすると怪しいかな、いやがられることがあります。いざ出そうとしてもすでに詞藻の涸れていることに愕然とすることがあります。
ずっとピークのままで終始できる人などこの世にはいないのです。芸術の人の場合はとくにそうでしょう。畢生の作とはどの人にも一つだけ、あるいはある一時期のものだけとして与えられる天からのギフトのようなものだと思います。それ以上は欲というもので、以って瞑すべきだと思います。しかしだからこそ価値を持ってくるのだと思います。一回こっきりのものだからです。だからこそ輝きを放つのです。こんなことを言って、なにか彼女がもうすぐ終わるような、若い彼女に水をさすようなことを言っているように聞こえるかも知れませんが、さにあらず、これは彼女への讃歌です。祝福といってもいいです。今年の花はこぞの花にあらずといいます。彼女のビッグバンのような装飾世界がこの先どのように変わっていくのか、いまは見当もつきませんが、限りある身の力試さん、いまを盛りと彼女には目いっぱい咲き誇っていてほしいのです。いや彼女は与えられたものに従って、いまを咲き誇らねばならないと思うのです。-葎-
KASUMI UEBA
1978 京都生まれ
2001 京都市立芸術大学陶芸科卒
2002 京都市工業試験場陶磁器コース了
2003 京都府陶工高等技術専門校図案科卒
2005 個展 ギャラリー器館(京都)
個展 高島屋美術工芸サロン(京都)
2006 個展 サボア・ヴィーブル(東京)
二人展 イムラアートギャラリー(京都)
個展 ギャラリー器館(京都)
個展 高島屋美術工芸サロン(京都)
2007 個展 サボア・ヴィーブル(東京)
個展 ギャラリーこうけつ(岐阜)
個展 ギャラリー顕美子(名古屋)
個展 ギャラリー器館(京都)
個展 シルバーシェル(東京)
2008 個展 ギャラリー小西(京都)
個展 サボア・ヴィーブル(東京)
パラミタ陶芸大賞展出展(三重)
個展 ギャラリー顕美子(名古屋)