無碍の人、鯉江良二
鯉江先生は能くいぬる人である。過日、それを妨害してはと、おとない時をはかりて行くも、一人して寝てござるので(午後三時)、気取られぬよう仕事場に忍び込み、勝手にブツを物色したことありけり。これなどあいにくというより好機というべし。ぬすっとの心持ちぞしのばるる。先生は深更ばったりとたおれるようだ。そして泥の底へ沈むがごとき眠りを眠る。そして蘇生するかのようにからくも目覚める。健康というよりは頑丈というべきである。年取れば寝るにも体力がいるのである。先生は昼夜を問わず飲んで正気を保たねばならないようだ。精神衛生上の必要とはいえ、あれで身体がもつのかと心配させる。先生近ごろ指先がしびれるという。「どうもこの、指の先というか末端がシビレて困るのだ。足の先なんかもそうなんだ」「そしたら先生、頭部も末端のうちやから。それから…」と笑い合ってオチをつけたりする。それにしても先生のあの日常は七十の肉体の許すところのものなのだろうか。アル中なのだろうか。五臓六腑に酒毒の回るという。次の日は酒の顔も見たくないという事がある。なんという日常か。筆者ではひと月ともたないような気がする。胃がただれる。しかし先生はデカダンというわけではない。作るものはその正反対のものを示している。先生はその頑丈希有な肉体を引っさげ、余人の分け入りがたい境地へと、日々おのれを追いやっているのである。辛うじての無事を確保しつつ。これをカラ元気という。
鯉江良二、古来稀なる年を経て、なお身中の火の玉冷え凝らず。七十の火の玉小僧。人間本来老若男女なしを地で行く人。この人、すなわち自由なのである。あるいは命がけで自由たらんとする人である。そして遊ぶ人である。危うき遊びに遊びほうける。遊びをせむとや生まれけむ、戯れせむとや生まれけむ、遊ぶ子どもの声聞けば、我が身さへこそ揺るがるれ…。袖の手まり取りいだし、つきてみよ、ひふみよいむなやここのとお、十とおさめてまたはじまるを…。梁塵秘抄か良寛かの世界である。イメージが先生に重なる。良寛は、わらべのなかなる本然の自由に、おのれの求める真の自由を重ねあわせていたのである。だとすれば生きるに難き人とならねばならない。先生もそうか。余人に真似て真似できぬ生き方である。
自由であるということ。芸術の人であろうとするならまずその事が要求されるところのものであろう。精神の自由という意味においてである。世の常の人たちの精神の覚醒をうながすなら、まずおのれの精神が目覚めていなければならないのではないか。すぐ脳みそのネジを巻かれてしまうような者が芸術を志してもダメでありムダである。芸術の人は自由場裡に遊ばねばならないのである。きつくて切実な、ときには狂気を帯び、ときには魂の救済さえ得られる遊びを。
私たちはいま、めでたく言いたいことを言い、したいことをすることのできる自由を享受していると思っているが、はたして今のこの自由に理性をもって対し得ているかどうか。享受する資格があるのかどうか。このなんでもありの自由をむさぼりつつ、イーヴルな、インモラルな本性をあらわにしつつあるのではないか。そのような人間が、以前より幅を利かすようになってきているように思われる。そのような人間がスター的存在になったりしているのではないか。その結果として、いつか私たちはそのような者たちのために、のっぴきならぬタガをはめられることになりそうな気がする。今のこの私たちの自由は、遠からず単なる一つのエピソードに終わるのかもしれない…。そんな世では、鯉江良二のような人は憤死しそうである。なにか話しが収拾つかなくなってきたが、先生のような人を見て作品を見て、筆者は思ったのである。自由という価値に値し、またその毒に耐えられる人あるいは社会のいかに稀かということを。
願わくは先生にはその作のいちいちに「自由」と掻き名を入れていただければと思い云爾(しかいう)。
葎