柳宗悦の「喜左衛門井戸を見る」という文章(昭和6年)に次のようなくだりがある。喜左衛門とは国宝に指定されている井戸茶碗である。
曰く…高台の削りは井戸においてとくに美しい。だが美しいからといって(いまの作者は)無理にその真似をする。もとの自然さが残ろうはずがない。あの強いて加えたいびつや、でこぼこや、かかる畸形は日本独特の醜悪な形であって、世界にも類例がない。そうして美を最も深く味わっている茶人たちがこの弊をかつて醸し、今も醸しつつあるのである。「楽」と銘ある茶碗の如き、ほとんど醜くなかった場合はない。「井戸」と「楽」とは、出発において、過程において、結果において、性質が違うのである。同じ茶碗とはいうが全然類型を異にする。「喜左衛門井戸」はまさに「楽」への反律である。挑戦である云々…。
高麗茶碗に比べ和物茶碗は、はるかに及ばないと言っているのである。長次郎も光悦も自然さを犯そうとしたその愚かさによって、畢竟、高麗茶碗の下位に堕するということも別のくだりで言っている。いわば全否定である。今の茶道も切って捨てている。創業時の茶人に比べ今の茶人へのぼろくそぶりは徹底している。たいそうな武者振りであるが、しかしどうも首肯しがたいところを感じてしまう。そりゃそうも言えるだろうが、という感じである。文章にはうっとりさせられてしまうが。
柳は浄土宗、それからその流れの真宗、時宗などに深く傾倒した人である。書いたものを読むとほとんど帰依している。だから柳の美にたいする信念は、ひと言でいえば他力思想に貫かれているのである。しかし他力といっても、その他力道なるものは、自力道よりも歩みやすい道なのだろうか。完全他力の境地に至ることなど、昔も今も凡夫凡婦にはできない相談と言うべきである。他力も自力も究極のところは一つだろうが、その頂きに立てる人は限られているのである。しかし柳はその境地をもの作る人に要求するのである。それはピュアリティーであり、素直さ、無邪気、無心、質素、そして健全といったもので、それらに対置させて今のものはダメだと言うのである。しかし喜左衛門を挽き、削り、釉掛けし、焼いた人間がこれらの性質を合わせ持っていたかどうかは知りようもないし、ひょっとしたら行住坐臥、煩悩に振り回されている人間が作ったのかも知れないではないか。柳は自分が阿弥陀様になったような気分で、この近代において、個我の取扱いに悩むもの作る人たちに対し我に帰依せよと言っているようである。高麗茶碗の美に懺悔せよと言っているようである。
今展の村田森も朝鮮のものに深く同情する人である。憧れと言ってもよい。李朝の尤品を臆面もなく引き写しに写してどうですかと見せに来る。しかし彼とその尤品との間にはご大層な宗教的あるいは思想的夾雑物は介在しない。彼は裸眼でじかに李朝を見るのである。あるのは素直な感動と衝動のみではないか。そして彼のものには迎合したような跡が見られない。要するに人間の品が出てくるのである。こういう人も今にいるのである。柳の民芸運動の残滓はいまも見ることができる。帰依している人もいる。村田はそういう信仰を持たずともまた必要とせずとも作れている。柳の説教を村田が聞いたら、なに言ってんだこの人は?という顔をするのではないかと思われて微笑を禁じ得ないのである。
葎
SHIN MURATA
1970 京都に生れる
1993 京都精華大学陶芸科卒
1994 同研究科了
荒木義隆氏に師事
1998 左京区修学院にて独立
2003 北区雲ヶ畑へ移転