加藤委に会っていて時に感じることなのだが、彼は、よく子供が見せるような反応というか、受け応えをしたり、子供が驚いたり、いぶかる時のような表情や様子を見せたりすることがある。まじまじとつぶらな瞳で見つめられたりする。見透かされているようでその視線に耐えない思いをすることがある。彼のそのような問いかけや、驚きいぶかる様子が、なにか根本的なものへの視線から発せられているように思われるのである。彼の作る物が頭に焼き付けられているからだろうか。
子供のような目で見る。無知のままに驚き、いぶかるということ。自然に驚き、時間に驚き、人間に驚く。その過ち、醜悪、邪悪に思い至る。善美なるものに感動する。かかる驚きが人に注視と思惟をうながす。これは一体なんなのかと知ろうとするのである。のっけからたいそうなことを言うようだが、いってみれば人間の創造的な営為というものは、宗教も哲学も芸術も、すべてこの驚きという始点を持つものと言えるのではないか。絶望に対する驚きも含めてである。
私たちはそういう驚きを驚かなくなって久しいように思われる。日常は目的と手段との組合わせに汲々とし、欲望の最大化をはかり、生き生きとした感受性をすり減らし、そして漠然とした疲れと不安を抱きながら生きている。昔の人ほど驚かなくなったのは仕方がないのかもしれない。無数に専門化された科学の異様な進歩は、私たちを神の領域に近づけつつある。しかし神ならぬ身の私たちは、所詮神にもなれず、依然として、否、神に近づく分、ますます私たちの犯す過ちは如何ともしがたいものになりつつあるようで、すでにリセットのきかない世界に足を踏み入れてしまっているのではないか。
出来たものは昔に返らずという。携帯から原子爆弾まで、持った者からこれらを奪うことはできない。まだらしいが万能細胞から人体パーツが作られるようになれば奪い合いが始まるだろう。女から精子、男から卵子を作ることもできるという。男同士女同士で子を作るのか。そこまで行けば神々の世界のスキャンダルである。頭がこんぐらかってくる。私たちはこのような進行中の事実に驚きを失ってはいけないと思う。驚きがなければ強い否定も、真の批判も生れないのではないか。哲学には、すでにあるものを疑い、批判し、否定し、最終的に残るものを選り分ける使命が課されているという。そこにあるものの存在さえ疑うのが哲学である。そうであるなら新しき哲学出でよと言いたいところだが…。
筆者には、加藤委の作品は、彼が何をどれだけ知っているのかは知らねど、いわば「無知の智」から生み出されるところの物のように思われるのである。彼の作る物には、謙遜な驚きと、大いなる智が内包されているように見える。もちろん彼の場合、美も表象されてのことである。彼の知のレヴェルがどれほどのものかということではなく、無知の智とは、要するに賢明だということである。知っているふりをしないのである。だから未知のもの、自己を超えるものに対して、驚き、いぶかることができるのである。だから本質が見えて、否定もできれば批判もできるのである。彼の作品には従来のものに対する否定が含まれている。その意味で前衛である。哲学的である。その否定のしようは、小ざかしい、ちまちまとした、難解な、私小説的な、退廃的なものの対極にある。また時代に迎合するものでもない。もっとなにか普遍なるものを含んでいる。ここまで来て曰く言いがたくなってきたが、要するに彼の作品は、見る者になにかを突きつける。なにかを人に気づかせる力がある。筆者にとっては、それがおのれの偽善、懈怠、堕落といったようなものである。一種の衝撃である。
彼の発信はミクロなものかもしれない。いまは哲学も芸術も無力なのかもしれない。宗教さえも。しかし加藤委という一人の人間の営為は、なにか真実なるものを求め、なにごとか美しいものを作り、なにごとか善きことを成し遂げようとする努力の連続のように思える。このような人の努力は、この世のあるべきあり方と無縁ではないはずである。この世に神の事業がもし行われているとするならば、彼はその協力者の一人ではないかとも思われてくるのである。なにを言っているのか、彼にはまたきょとんとされそうな恐れ無きにしもあらず云爾(しかいう)。
葎
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今展は、回顧的な意味合いを持たせた作品と、今回
穴窯で新たに焼成される作品とで、二部に分けて展
観させていただきます。
何卒ご清鑑のほどをお願い申上げます。