器というものは、当たり前ですが使われるためにあります。器は、うつろな空間を擁しているからです。器はなにかを受容しようと待ち受けているかのようです。ぞんざいに扱われようと、この上なく大切にされようと、例えば牛丼屋の丼鉢から祭祀に用いられる器まで、何用であろうと、器には用という宿命が与えられています。そして器はそれぞれにその用を満たして、たいがいは欠け割れ、打ち捨てられ、埋もれていくのではないでしょうか。形あるものは壊れるということです。
器の使われよう扱われようもいろいろですが、器にも使われ甲斐というものがあると思います。日ごろ愛用のめし碗や湯呑などは使われ甲斐があるというものです。もしそれが割れたとして、ああ割れたかくらいにしか感じない人もいるでしょうが、なにがしかの喪失感に似た感慨を覚える人もあると思います。そんなとき器にしてみれば使われ甲斐があったということで、器冥利につきるわけです。器は人との関わりのなかで存在しているのです。
そんななか、茶事に使われる器ほど器冥利につきる器はないでしょう。茶では器の一つ一つに人の思いが深く託されます。役回りが与えられます。まるで一幕の戯曲を見るように器が登場し、退場し、あるいは手から手へと渡されていきます。そこはもてなし、もてなされる場なのですが、ある種の緊張感が流れています。器も人も向上の一路を求めてあい集うべき場なのです。そこで使われる器には、その人の生き方とか人生観、美意識までが映し込まれたりします。一碗の茶碗からその人の茶道が推しはかられるわけです。ものが如実にものを言うわけです。器にとっても正念場の舞台なわけです。考えてみたらこのような場が用意されていたおかげで、時を超えて歴史に推参するような器が多く生まれたのだと思います。背後に深く思想なり美なりを湛えた器たちです。単なる物を超えて抽象表現へと高められた器たちです。幾世紀にもわたって器がこれほど緊張を強いられ、鍛えられ、昇華されてきた場は、他には残念ながら見当らないように思われます。
今展では、懐石の器と銘打って、新進から著名まで多くの人たちに出展していただきます。近年、若い人たちがさかんに茶を意識したものを作る傾向があるように思います。たいそうにいえば、一つのルネサンス的動きと言えるのでしょうか。いわゆる〝いかもの〟では困るのですが、若い人たちには、新鮮な感覚と想像力でもって緊張感をかき立てていただき、ずっこけてもいいですからせいぜい傾(かぶ)いていただいて、茶の精神のコアに触れるような、茶の精神とは前衛そのものなのですから、そのような鮮烈なものを呈示していただきたく思うのです。
何卒ご清鑑のほどをお願い申上げます。
葎
●出展作家
厚川文子 植葉香澄 内田鋼一 大江憲一
大江志織 奥野信生 奥村博美 小幡桂子
片山亜紀 加藤委 嘉野恵美子 叶貴夫
北澤いずみ 金憲鎬 桑田卓郎 鯉江明
高柳むつみ 竹内紘三 谷内薫 田淵太郎
丹羽シゲユキ 堤展子 中村譲司 楢木野淑子
新里明士 長谷川潤子 畑中圭介 林大作
藤田直毅 槇原太郎 松島崇 松本治幸
森野彰人 山田晶 吉川充 吉村敏治
荒木桜子(硝子)