未来
私たちは自分たちの往く末のことを将来とか未来というが、その言葉の意味するところを見れば、将来は「まさに来たらん」、未来は「いまだ来たらず」ということであろう。将来は目前にせまり来るものとして、あるいは予感や実感の及ぶ範囲のものとして、ある程度は現在のうちに取り込めるのかもしれない。未来となるとどうか。先を読んでいるつもりでいても、現在でさえままならぬ私たちにとって、未来などというものは、預言者たちの託宣に頼るしかないもののように思われる。政治によってもデマゴギーよろしくいろいろな未来がまことしやかに言われる。しかし未来は私たちのコントロールと所有の外にあるもので、現在と繋がっているようでいて実は現在との間には全き断絶が横たわっているのではないか。そして私たちは希望や恐怖を抱きながらその到来を待つだけの存在なのではないか。「いまだ来ぬもの」はだれも知ることはできないのである。現在は決して未来ではないのである。決定的に予言し得る未来があるとすれば、それは死すべき者としての未来だけであろう。とすれば本当の未来というものは、死後にあるのだということになるのかもしれない。そしてとまれ、将来も未来もたちまちのうちにやって来るのである。現在との接点はこのたちまちのうちにしかないように思われる。
一寸先は闇とはよく言ったものである。一寸先は闇でいいのだろう。闇があって光がある。私たちは、明るかろうが暗かろうが、未(いま)だ来ぬものにあまり惑わされずに、あるいは預言者たちの眉唾物の言などに左右されずに、現在をなるたけ過たずに、なにかより善きものを生活のなかで志向しながら闇を行くしかないということか…。しかしそのような努力は報われるだろうか。
陰々滅々とならぬうちにお話変わって…、今展の田淵太郎はまだ若い。彼には未来があり、将来の希望というものがある。やきものに夢をかける青春のただ中にいるのだろう。そして彼には全ての可能性があるといえる。しかしそれは未だ彼の希望であり可能性でしかなく、彼自身の既成事実ではない。全ては希望のうちにあり、いまだリアルなものとして現前してはいない。全てが未だであり、まったく不確実である。若い時代というものはそのような不安のなかにあるわけで、これは今も昔も変わりないだろう。そのような不安は若い人だけに特有のものでもないだろうが、しかし若い時代には既成事実というものが、年を経た人間より少ないということは事実だろう。彼はこれから希望でしかないものをどんどん既成事実化していくわけである。そして彼の作品には、そのような自己実現のための可能性が秘められていると思う。これは客観的に見て幸せなことである。灰被(はいかつぎ)の白磁といったその作品は、白磁をよごしているようでいて、清浄感と穴窯焼成のダイナミズムを両立させている。キャンバスが白いゆえに微妙な色合いが複雑である。美しく、見るべき姿と景色がある。焼成の妙諦のようなものを鋭い感覚でつかんでいるのだと思う。これも一つの才能である。この手のものに加藤委の白磁があるが、田淵のものはまた別種で、作る手が違うのだから当たり前だが、別種と思わせるのは、加藤のものに画然としたオリジナリテがあるのでおのずからそう思わせるのだろうが、田淵のものにも違った風情で加藤のものと遜色ないオリジナリテを見出すからである。注目する所以である。今展では白と黒で、引出し黒も出るという。
芸術の人の未来ほどおぼつかないものはない。丁半博打ではないが、そのおぼつかない未来と、おぼつかない仕事(芸術)に、おごらず地道におのれを賭けている人がいる。彼のような若い人の青春を祝福したく思い云爾(しかいう)。
葎
Tabuchi, Taro
1977 香川県生まれ
2000 大阪芸術大学工芸学科陶芸コース卒業
2003 第21回朝日現代クラフト展 優秀賞
2004 個展 INAXガレリアセラミカ(東京)
2007 高松市塩江町にて薪窯築窯
SOFA NEWYORK/Keiko Galleryより出展
2008 個展 高松市塩江美術館(香川)
2009 個展 陶林春窯(岐阜)
2010 個展 エポカ ザ ショップ銀座 日々(東京)