片山亜紀展、今展で二回目となる。前回展の作文を弄する際、もの作る人の幸せとはどのようなものをいうのだろうと考えた。筆者のような者からすると、やはりもの作る人というのは、本当にうらやましい存在で、人生の長きにわたって熱中できるものがあるという意味で最高に幸せなのではないかと思ったりした。ものを作るよろこび、表現、それが認められたときの高揚感は、格別のものがあるのではないか。もっとも、となりの芝生は青く見えるというから、彼らにだって悩みや不安、人生の問題はあるだろう。それは世の常の人のそれとは異質な、より深いものかもしれない。人生の幸福というものを考えると、まこと人生いろいろである。
幸福について日ごろ断片的に取りとめもなく思う…。若いときは命が華やいでいる。ホルモンの作用もあってなんとなくバラ色である。そのなかで恋こがれたものを手にするよろこびは、人生最上のものであろう。また老いても平安な日々が送れるのなら、過去の苦労は忘れ、楽しかったことだけが思い出されるだろう。しかし老年はやはりそれ自体で悩ましく困難な時期だと言える。体のあちこちにガタがくる。ボケることだってある。感覚も知性も鈍くなってくる。そしてなにより死が身辺に迫って来ている…。幸福というものが人生の長きにわたって考えらるべきものなら、老いと死が最後のところで待ち受ける人生の幸福とはなんぞやと考え込む…。では幸福なぞというものを考えるのは止めよう。そういうものを考えないほうが気楽である。快楽主義という生き方もある。その時その時の快楽がすべてだ。人はみなその本心において快楽主義者である。しかしたとえば年老いた快楽主義者とか病気の快楽主義者などは無惨であろう。快楽主義者にとって人生は甘くないようである…。若いうちに歓楽のかぎりをつくして若死にしてしまう手もある。神々はその愛する者を若死にさせるということが言われる…。あるいはそういった神の恵みを待たないで、自分で死を選ぶこともできる。このとき人は単なる快楽主義者の枠を超えて、一歩ふみ出しているのかもしれない。短くとも人生全体にわたって幸福というものを考える立場にあるとも言えるからだ…。あるいはニヒリズムに徹するという手もある。幸不幸、なにが起きても驚かないという態度である。達観するということである。しかしニヒルを気取っていても、なにか人生でうれしいことがあったりすると、ちょっとタンマということになってお祭り騒ぎをするのが人の常である…。あるいは現代の科学とか技術に、あるいは理想の福祉国家といったものに、他力的な幸福を期待するか。しかし科学技術や国家が常に信頼できるものなのかどうかまったく疑問である。どうも幸福というものは、考えれば考えるほど景気が悪い。変な宗教のように幸福論は歓喜をもって論ぜられるたぐいのものではないように思われる。
不如意であり、ままならぬもの、それが人生であり、幸福なのだろう。幸福というものは、熱望して求めれば求めるほど、落とし穴のようなものがあるように思われてならない。幸福へ向ってむやみやたらにラッシュするのは剣呑(けんのん)である。私たちは幸福に対して用心深くあらねばならないのではないか。
結局、人生の長きにわたって自分を懸けるに足る価値や目的を、自力で見出せるかどうかということが大きいのではないか。なにごとかの達成へ向って長い道のりを行くこと。それは、人生の長きにわたって、ある仕事を成すということだと思う。定年のない仕事がいい。人生の長きということ。恋愛というようなものにも、命を懸けるくらいの絶対的な価値があるのだろうが、やはり一時的な感情にすぎないものとも言える。おのれを懸ける仕事、それによって幸福を目指すことはより永続的である。そしてそれが他者への献身を含むような場合、より高い価値へ、人生の善とか美といったものへ結びついていくのだろう。
今展の片山亜紀は、すでに自分の行く道を自得しているような風情である。幸福を求めてラッシュする必要のない人のように見える。この点ですでに自由を手にしているということであろうか。創作の、天賦の感覚にも恵まれている。あ丶うらやましい。彼女の人と作品を見てまたもや同じようなことを考えさせられてしまった。前にも書いたようなことを書いている。寄せては返す波だと思し召してご寛恕賜りたく思い云爾(しかいう)。
葎
KATAYAMA,AKI
1979 広島県生まれ
2002 京都市立芸術大学美術学部陶磁器専攻卒業
主な個展、賞歴
2004 京都高島屋美術工芸サロン
2007 サヴォア・ヴィーヴル(東京)
2008 サヴォア・ヴィーヴル(東京)
第26回朝日現代クラフト展 審査員奨励賞
2009 ギャラリー器館(京都)
サヴォア・ヴィーヴル(東京)