鯉江明は遮二無二作っている。日々の修行か稽古事のように。その姿勢や良しである。とにかくこの今、オレは作っていようという決心でいるようだ。作るその数はおびただしくなる。そしてまあその歩留まりはともかく、なかにハッとさせられるものが確かに混じっている。それら格別のものは、彼の作るストーンウェアの膨大な堆積のなかから、まるで重力を脱して浮かび上がってくるように目を射る。一目、これだと思わせるものが散見されるのである。これを才能というかDNA的なものと思うのか、とにかく彼は何者かではあるように思われる。よって今回の展という仕儀になるわけで、当方も義理や酔狂で展をお願いするわけにはいかないのである。
とはいえ、もし彼が鯉江良二の息でなかったら、筆者も興味をそそられなかったであろうし、接点もなかったかも知れない。鯉江良二その人と作品への深甚なる興味から、やはりその血脈への興味も湧いてくるのであって、同時に、あの人の実の息子かといった珍しもの見たさ、あるいは期待まじりの、どうせあかんやろといった見物の残酷さのようなものが我が心中にあったように思う。そういう先入主的な見方が彼に対しては一般的にもされるのだろう。あのオリジナリテのかたまりのような親を持った明の宿命である。彼にしてみれば面白くないことだろう。覚えのないことであろう。勝手に思いやがれ。
知多半島常滑には、鯉江という姓が多い。土着の姓であろう。海沿いで鯉江とは如何。鯉と江…鯉は淡水に棲むから、もとは内陸の山のほうにいた人たちか。作陶集団だったのだろうか。それが南下して知多に終の棲家を見つけたのかもしれない。筆者にはそんなふうに想像してみたくなる気持ちがある。いつか鯉江先生に聞いてみよう。フィクションでもいいのである。
明を見ていると、アーティストというより常滑の陶人といった風情である。相貌である。そして彼の作は中世の常滑に脈絡するもののように思われる。素朴で、武骨で、豪快な、アンシンメトリーだが、いわば乱調の美の一つの極みを見せる中世常滑の壺や甕、碗や皿。あれらを遠い祖先が作ったと思うことは、彼に勇気のようなものを与えるのではないか。たとえフィクションまじりであろうと、そこに時を超える自己の同一性というかアイデンティティーを見出すことができるのではないか。陶人としてのである。親などは飛び越して、より大きなものに繋がるということである。そこに彼の自由が見えてくるのではないか。
鯉江明。良二の息であることそのままに、自由への旅路を辿りはじめる。天竺からの発信。-葎-
KOIE Akira
1978 常滑に生まれる
1999 名古屋福祉法経専門学校幼児教育科卒
2001 常滑市天竺無鉄砲窯築窯に参加
2005 初個展 うつわ菜の花(小田原)
以降、各地で個展
赤坂乾ギャラリー(東京)
西武池袋(東京)
橋本美術(名古屋)
ギャラリー数寄(愛知)etc.