写真の筒花は、鯉江良二、英国セントアイヴスでの作である。九十年を経てよみがえったバーナード・リーチ工房での制作。風に吹かれて立っているような風情。あるいは〝きんと雲〟にのって天空をゆくかのよう。鯉江良二は何処にあっても融通無碍の人である。
今月四月、鯉江先生が京都精華大学の招きを受けてまた京都にやって来る。またというのは、昨年も、京都工芸繊維大学へのご登場があったからである。二年続けてのワークショップ、作品制作となる。弊館はそれを奇貨とし、これまた二年連続の個展という僥倖に浴することと相成った。嬉しい。さて今回はいかなるものを示して下さるか。もうそれらは将(まさ)に来たらんとしている。この端緒は実現するのである。筆者はいつも、先生とのこういう機会を得るその度ごとに、なにか善き人と善きものにもうすぐこれから会うかのような、そわそわする緊張と期待に満たされる。
先生とはすでに早、二十年以上仲良くしていただいているが、その間、作品に魅了され、その生き方に感化され通しであることに気づかされる。しかしまあ、あまり近づくとあれなので、遠くにあって察し思うといった体(てい)ではあるが。そしていろいろと考える。だから鯉江良二の人と作品について、なにかもの言えと言われれば言えないこともないのだが、先生の場合、解釈を塗り込めたようなさかしらなことを言っても、唇寒しということになりそうで、それで以前、最初の文句も思い浮かばぬままに、おのれのパッションの赴くにまかせて作文をしたことがある。再録にてご寛恕のほどを。ご笑読賜りましたら幸甚です。
先生の作品につきましては言を弄せば唇寒し / 先生は火の玉の人、パトスの人 / 内燃機関の如き先生の力はいかに調達されるか / 鎧袖一触、火のあがる揮発性の燃料とは先生の体力ギリギリの脳ミソのなかにあり / その脳ミソが身体と競争してドキドキさせられる / 心身一如? / 三日ごとに先生は斃れ蘇生するとの由
オブジェ…ひとりぼっちの孤独な表現 / 解釈に解釈を塗りこめる / 新風でもなし不易でもなし / 他者不在の自涜的自己表現 / 恥ずかしいではないか / なんなら今ここで死んで見せましょうかとて / 先生土に還るおのれを見せつける / あれにはその他大勢埒もなし
春秋に義戦なし / 機械あれば必ず機事あり / 畢竟の原子爆弾 / とはいえ先生哀しき、甲斐なき怒りを怒ってみせる / 一大事とはこのこと以って他なしと / しきりに無コを殺傷することたまりませんと直截なり
先生は作る / 作って作りまくります / 尺度と問わばそれはこの世にないようで / 現代の茶道≒新興宗教と敬して遠ざけつその精神とは昵懇のご様子 / 先生どうも中世から桃山に焦がれ侘ぶるようで / そこに混じる縄文の血といいますか / 一万年の荒ぶるDNA押さえがたし / それに常滑のワーキングクラスの出自 / 真正のワーキングクラスはインテリをバカにするのです
先生は火の玉小僧 / 根性丸出し顔面蒼白 / 当るを幸い突進します / 土に突貫 / 泥中を走る / さてはこの世に新しきモノなしとはいえ / 先生は先生につながるものを彷彿とさせたいよう / 根底で一体であること / 一点から発し止揚を志向すること / しかしながら肉薄しても残るは紙一重 / 詮なしと先生は彷古に走るはずもなし
そして先生は先生を引っ提げて歴史に推参するか / その天稟資格ありやなしや / 人は彼に天才ありと指さしますが / この文化果つるときいかんせん / 勝手に作って少数の理解者にゆだねよう / カラ元気は男子の本懐 / 我が身中の火の玉冷え凝るまでご覧じあれと先生は云っているようで / ヒヤヒヤと遠くに拝察するのです / あの人は自由であろうとして、生きるに難き生き方をしている人なのです -葎-
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今展では、京都の土(中世の岩倉、幡枝、木野で瓦焼造に用いられた土など)を用い、茶碗、盤、立ち物などが出展されます。特に今回は〝新手〟が出てきそうです。楽にも挑戦される予定です。何卒ご清鑑のほどをお願い申上げます。