器考管見
器という漢字は、四つの口にもとは犬と書いてうつわと読みます。原義は多くの犬が鳴き叫ぶ意味との由。それがうつわの意味とはこれいかにですが、字面がいいので借りてその意味になったのでしょう。また別に面白い意味があります。一つの事に役だつが、ほかに融通のきかないもののたとえにも用いられたそうです。この意味に筆者などは反応してしまいます。すなわち器には用という役回りがあります。一つ事とは用のことだと思います。器と用は、宿命的な、あるいは不即不離の二項だと思います。器はそもそも用と利から生まれたものですから、このたとえ、むべなるかなです。器は用いられてその本懐と遂げるのだということでしょう。
これでもうおしまいでいいのですが、さらに考えを巡らせば、では器の有用性はどこから来るものなのか…、しかれば、器に無為のイデアといったものを見い出した聖賢がいます。すなわち、有の以って利を為すは、無の以って用を為せばなりと云います。土をこね、器を作れば、おのずとその無に当たりて、器の用ありということです。老子は、無とか空の概念なしでは有も利もなしという哲理を器に観じたのです。
私たちは、昔から老荘や仏祖の思弁に親しみ、また帰依してきました。それらはまずもって無とか空へ傾斜する思想だと思います。般若心経などには無の窮理が描かれていて、あのような思想は西洋からは出てこないものだと思います。そのような大きな文明のなかで、私たちの父祖は老荘仏祖由来の思想を思想として、独自の生き方を選択してきたのだと思います。ひいては、器の無に当たりて、後日の茶祖などは、無茶振りにも器という物に自身の生き方を投影しようとします。無に親しみ、死すべき者として、我が身の生死の一大事に遊ばんとして、そこで器を道具にしたのだと思います。その行いは、もはや器の用と利を止揚し、自身の考える哲理とか善美を器に生み付けるような仕業だったのではないかと思います。器はあとに残りますから。
ご大層なことを申しておりますが、これも職掌柄、我田引水、ひいきの引き倒しとご寛恕いただければと思います。土は神が最初に手にした素材と記した聖典もあります。器は彫刻的であり、絵画的であり、具象であり、抽象でもあります。表現のための大いなる媒体だと思います。人は土をこねてなにやらを作ります。このことは止むことはないでしょう。そして器は今も、作る人見る人を問わず、私たちの働きかけを待ち受けているように思われるのです。器は、その無に当たりて、今も私たち独自のアプローチを迎え入れるべく存在しているのだと思いたく思います。
今展の山本哲也さんは、器に専念し、器に特化してきた陶芸家であると見ております。彼曰く「用途や機能を考える過程から自然に生まれるカタチは、シンプルで美しいデザインになっていく。自分にとってのモノ作りはそこから始まっています。そこで土の素材感を探り、焼きものの奥深さや可能性との融合が、これからのモノ作りの原動力になって行くのかも知れません」。
まさに出発点としてこれでいいのだと思います。彼の器は、彼の言の通り素材感のあるシンプルで美しいものです。また求め易さについても彼の良心のようなものを感じます。何卒のご清鑑をお願い申上げます。-葎-
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TETSUYA YAMAMOTO
1969 京都生まれ
1994 京都精華大学陶芸専攻卒業
1996 京都精華大学助手
2005 京都精華大学非常勤講師
2011 同大学非常勤講師再任
個展グループ展と各地著名ギャラリーの誘いを受け
旺盛に数多く開催。
無所属。