私たちは正邪とか善悪について、いざという判断ではしょっちゅう過ちを犯すけれども、即物的な美醜の判断に限っては、ほとんど迷わないように思われる。小林秀雄だったと思うが「そこにあるのは美しい花であって花の美しさではない」という言葉が思い出される。うるさいことを言ったり、よけいな解釈を加えなくとも、美しいものは美しいし、美は私たちを楽しませ、満足させてくれるのである。そしてそのような美に、私たちはこの世の最上のものを認めて、そこに神の気配さえ感じたりすることがあるのではないか。
たしかに美の価値には普遍的な確実性のようなものがある。だから芸術の人をはじめ、ある種の人々は、人生の最上の価値や目的をそこに定めたりもする。しかしこの世はうつろいゆくものであるから、この世に永遠の絶対美というものはない。時のうつろいとともに、人も物も変化し、こわれていくのである。色は衰え、物だっていつまでもその姿をとどめることはない。最初に見られた美は、いつまでも見られたままであることはなく、まことにうつろいやすく、はかないものであって、そんななかで私たちは、美に関する問題について、好悪と共にむしろ醜を感じることが多くなって来るのである。
しかしながら、人は醜なるものに対しても、清濁ではないが、美醜ともに併せ呑むといった、醜への思いやりの心を持つこともあるのではないか。そんなとき、人は醜に対する同情あるいは愛情を感じはじめる。美のみをひたすらに追いもとめる芸術もあるが、そのような「この世はすべて美し」といった宗教的な境地からだけのものが芸術というわけではない。醜へのシンパシーがあっていいのである。美への愛は、そもエロースに端を発するものだと思うが、醜をも受容する愛は、そのエロースがさらに進化したものだと思う。いわゆるプラトニックラブである。そこから導かれる芸術は、対象をより深くとらえた、対象の全体をとらえた、美の感激においてより能動的な、深い精神性を宿したものとなるように思うのである。
今展の原菜央のことを言いたくて、また風呂敷を広げ過ぎてしまったが、彼女の作品をまずもって形容するならば…、夢とうつつの境界線上にあるような、どこかルイスキャロルばりの幻覚体験的な、フロイト的要素を思い起こさせるような、そして聖性と毒性をあわせ持ったような、あるいは思わせぶりのナンセンス性とか、色々と思い浮かぶ。それだけ彼女の作品は雄弁だということであろう。見る人をゆさぶり、へたな批評家を翻弄するような力を秘めている。彼女はそのような作品を、美醜の境というか塀の上を行くようなところから発信している。ご本人も美と醜の二項を意識してやっているのだと言う。そういう意識的な計らいを持ちつつ、作品と言えるものへ持って行く才は、これはほめものだと思っている。まことに端倪すべからざるものがある。彼女の作品には随所に畸形が見られる。それは奇をてらったものではなく、むしろ先ほど言ったエロースの進化形による産物のようなもので、畸形をも取り込んで、包含してしまうといった、あっけらかんとした美の寛容といったものを感じさせる。今展で二回目の展となります。彼女には恐縮ながら、ルル述べたことは、一見物の勝手で過大なホレ込みと思っていただき、しかし期待には応えていただきたく、従ってここに彼女に圧をかけさせていただきたくも思い云爾(しかいう)。
葎
NAO HARA
2007 京都精華大学卒業
2008 京都市産業技術研修所本科修了
2009 同専修科修了
2009 京都府立陶工高等技術専門校中退
2009 遊碗展(京都・ギャラリー器館)
飄藝祭’09feastへうげもの(名古屋・松坂屋)
第29回長三賞展 入選
2010 遊碗展(京都・ギャラリー器館)
試みの茶事EZO茶会(札幌・東本願寺札幌別院)
試みの茶事北の丸大茶会(東京国立近代美術館工芸館)
個展(京都・ギャラリー器館)
奇想の女子陶芸(大阪・阪急梅田店)
ワンダーランド陶アート(京都・TKGセラミックス)
2011 個展(京都・ギャラリー器館)