東北のほうでは今も旧約のヨブ記のような、神かサタンにでも問い質したくなるほどの受難が打ち続いているのだろう。多くの人々がどうしようもない問題に直面させられているのだろう。彼らはこの先どうなるのだろうか。今、私たちのこの共同体、日本という国家社会の一部が傷つき叫び声をあげている。その傷をふさぎ、元気づけるものはなにか。喪失の極みにある人々を再び立ち上がらせ、前向きにその気にさせるもののことである。
こういうとき彼の地の人々は、外部的にはせめて政治というものに期待し、政治家に多少の希望を見い出してもいいはずである。宗教とか芸術にも、今こそという意味では同じことが言えるのだと思う。しかしまずは、国家社会を差配する政治が彼の地の混沌を制し、人心を落ち着かせるのが先決であって、物心両面でそれができるのは政治しかない。しかるに、その政治のリーダーたるわれらが宰相はだれが見ても最悪である。権力への欲情がいやらしいほどに深いのではないか。金銭においても自民党よりたちが悪そうである。デマゴーグかつポピュリストの典型である。それもスケールが小さい。マキアヴェリストの出来そこないである。マルキシストの出来そこないの嫌いもある。不誠実不正直である。なすべきことと言うべきことの先後がむちゃくちゃである。先見の明が皆無である。独善におちいり独裁的になりつつある。もう吐く言葉に耳をふさぎたくなる。面変わりした人相には目をそむけさせるものがある。馬脚をあらわにした観は空前絶後である。政治家の出来そこない権力をニギニギし…。ぼろくそ過ぎるだろうか。
この数ヶ月、彼の地の人々は、わが宰相の言葉に耳をそばだててきたことだろう。しかし心に届く片言隻句でもあったであろうか。虚無の誘惑から人々を解き放ち、克己とか勇気、あるいはこれからの覚悟を説く。そういう政治の人であったなら、どれだけ多くの人の精神が元気づけられたことか…。彼の人は私たちが戴く世俗の王である。しかしその資格をあまりにも欠く人を私たちは戴いてしまった。間もなくその王座から降りるのだろうが、この間の仕儀は私たちの過ちでもある。浮世のことは笑うに如かずというが、受難の人々のことを思えば、笑うに笑えぬ残念至極なことだったと銘記しておかねばならないのではないか。
写真のされこうべのオブジェは植葉香澄の作品です。手前奥と二点並んでいるように見えますが、同一作品の正面と裏です。されこうべとはいかにと思わせますが、こういうモチーフを正面にどんと持ってくるのが彼女の真骨頂です。彼女自身、別にこねくりまわしたような意味はないと思います。だからこそ、なにか元気づけられるような、突き抜けたような全肯定を感じさせます。かなわんなあと思わせるものがあります。花として花として咲かせてあげたいという唄が思い浮かびます。左のこめかみに La vita e bellaと書いてあります。イタリア語で人生は美しいという意味だそうです。そういえば仏陀も涅槃に入るときに、この世は甘美なりと言ったそうです。死すべきことは、私たちにとってどうにもならない問題ですが、彼女の作品は、いわば無に対する有の謳歌のようなものとして訴えかけてきます。彼女の作品の本質はそのようなものだと思っております。何卒のご清鑑をお願い申上げます。-葎-
KASUMI UEBA
1978 京都生まれ
2001 京都市立芸術大学陶芸科卒
2002 京都市工業試験場陶磁器コース了
2003 京都府陶工高等技術専門校図案科卒
2005 個展 ギャラリー器館(京都)
個展 高島屋美術工芸サロン(京都)
2006 個展 サボア・ヴィーブル(東京)
二人展 イムラアートギャラリー(京都)
個展 ギャラリー器館(京都)
個展 高島屋美術工芸サロン(京都)
2007 個展 サボア・ヴィーブル(東京)
個展 ギャラリーこうけつ(岐阜)
個展 ギャラリー顕美子(名古屋)
個展 ギャラリー器館(京都)
個展 シルバーシェル(東京)
2008 個展 祇をん小西(京都)
個展 サボア・ヴィーブル(東京)
京都府美術工芸新鋭展(京都文化博物館)
パラミタ陶芸大賞展出展(三重)
個展 ギャラリー顕美子(名古屋)
2009 個展 ギャラリー器館(京都)
個展 サボア・ヴィーヴル(東京)
個展 目黒陶芸館(四日市)
個展 山木美術(大阪)
高島屋巡回展-未来へのタカラモノ-(東京、大阪、京都)
2010 現代工芸への視点 装飾の力(東京国立近代美術館工芸館)