写真の作品は浅野哲のもので、色釉アラベスク文長方壺とでもいうべきか。しかし正長方体ではない。よく見ると各面は台形のかたちをなしている。それゆえ微妙に遠近の効果がかもし出される。その変則長方体の、相隣る六面すべてがアラベスク文で埋めつくされている。これ茶碗ではないが、サイズも小さいので、思わずわが猿臂(えんぴ)をのばし、掌中に取り込みたくなる。視覚と触覚の両感覚を要求してくる。そしてしばし掌中の珠となるのである。
色釉のヴァリエーションは四十数色におよぶという。これら四十色以上の釉を、混じらず、縮れず、また垂れぬように、焼成というプロセスをくぐり抜けさせねばならない。そして各色の発色と彩度をマネージし確保せねばならない。1ミリに満たない境界を接して色釉が、自ずからの色を呈して、少し立体的盛り上がりを見せながら、画然たる様子で凝集している。これは他の人に教えようとして教えられない、伝えられない、浅野一人(いちにん)の技術なのだと思う。その技術的プライドの上に立った、本格の“陶芸”による表現だと言いたい。
料理のレシピのようにはいかないが、あらためて彼に聞いてみた。成形して、ある程度乾燥させてから、全体に極細のくし目、引っ掻きを入れる。それから鉄の多い泥土で黒化粧する。素焼きする。素焼きののち、水洗いしながらサンドペーパーをかける。そうすると、くし目だけに黒化粧が残る。このバックがあとで色釉を透しての陰翳を演出する。次に撥水剤でアラベスク文様を描いていく。それ用のペンのようなものを使うとの由。意外や、アタリはほとんどつけず、興のおもむくままに描いていくらしい。そして、浅野薬籠(やくろう)中のパレットの出番である。色釉はいっぺんに全部載せ置いていく。だからすなわち本焼き一発ですべての色釉を生かすわけである。一回ですべての発色を得るわけである。まことシンフォニックである。
筆者はそれをたいしたものだと言いたいのではない。たしかに浅野の技術はいわば名人芸のようなもので、一つの磨かれた感覚のようなものだと思う。しかし技術は技術である。技術とは、ある行為や制作へと導き、結びつける知識とか感覚というふうなものであろう。だから技術は技術に終わるのではなく、以ってより上位の価値の実現に駆使されるべきものである。驚嘆の技術であっても、それを所有する人間、利用する人間がダメでは、たとえば善きものあるいは美しきものに結びつくはずもない。今日の科学技術など、人はその果実を正しく摘み取っているとはとても言えない…。
なんだか当たり前のことを言っているようだが、浅野の技術はだから、たいしたものだと言い直したいのである。美しく、善きものへ結びつこうとしているからである。彼のテクニークは美への欲求によって開発されたものであり、本格であり、自己完結しており、成功していると思うからである。ここに一人の人間の技術が、真っ当に立派に使われている好例を見る思いがする。すべからく人間の技術全般はかく用いられるべきであり、そのような理想に近づくならばと思う。彼の作品を手にしていたら、柄にもなくそんな高尚な思いに駆られてしまい云爾(しかいう)。
今展で四回目の展であります。今回は素地に砥部の磁土を用いたアラベスク文もお目見えします。何卒のご清鑑をお願い申上げます。
葎
ASANO, SATOSHI
1958 大阪府生まれ
1988 京都市立芸術大学大学院陶磁器科修了