●出展作家(五十音順)
内田鋼一 岡本作礼 梶原靖元 加藤委 金重有邦
川上清美 須賀保中 徳澤光則 丸田宗彦 水谷渉
三好建太郎 安永正臣
中世から近世への変わり目は、安土桃山といい、その前後は、多くの人が一生にして二生も三生も生きる心地のした時代ではなかったか。生き死にの一大事が、日常の感触としてあるような、そのようなゲバルトの時代、群雄割拠、内乱の時代であった。諸行無常の風が吹き荒れていた時代とでもいおうか。そんな時代の帰趨が見えはじめたころ、玄界灘に突き出た唐津の東松浦半島から朝鮮を望めば、手が届くような気がしたのだろう。そして、のどから手が出るほどにほしくなる。太閤秀吉、欲である。老耄(ろうもう)の執着である。あの戦は、まごうかたなき侵略であった。結果は、不毛かつ惨憺たるもの、憎むべきものであった。しかしその善悪を今ここで問うても詮方ない。いにしえより春秋に義戦なしという。いつもの伝で怒られるかもしれないが、さかのぼれば貴国だって大挙して攻め来たったことがあるではないか。わが国は、元高麗の連合軍に二度にわたり波状攻撃を受けました。モンゴル人は肉食騎馬民族です。ひょっとしたら壮丁は皆殺し女はすべて奴隷にされていたのかもしれません。
ところで文禄慶長の役は、別名「やきもの戦争」とも呼ばれている。戦は破壊と殺し合いを常とする一方で、異文化の流入や混淆をもたらすという一面もある。その意味で戦は、破壊と創造といった両面を有するのだといえる。あの戦もやきもの戦争といわれるように、唐津の、ひいてはわが国のやきものに多大な影響をおよぼし、新たな展開をうながしたのである。
それにしても筆者に興味があるのは、あのとき、朝鮮の陶工がどのようなかっこうでこちらへ連れて来られたのかということである。こちらから仕掛けた戦だから、やって来たとは言えないだろう。やはり連れて来られたのである。しかしそれが今でいう拉致とか強制連行のようなものだったのかどうか。いまの戦後的史観で昔を見れば見あやまるのではないか。筆者は、強制的な色合いはうすかったのではないかと思う。彼ら朝鮮の陶工は、殖産興業のための得がたい人材、いわばテクノクラートようなものとして遇されることがあったのではないか。そこには条件提示のようなものもあって、その上での合意もあったのではないかと想像されるのである。
しかしながら、戦を契機の、どさくさまぎれの半強制的移住である。故郷忘じがたくといった思いは痛切なものだったろう。日ましに強くなっていったことだろう。そのような人たちが、異郷である唐津でやきものを作りはじめるのである。彼らは、当時の日本人の美意識に電光を走らせた当の民族でありその後裔である。すなわち唐津という地に、李氏朝鮮民族のキャラクタリスティックなエートスが移植されたということである。すなわち唐津焼の源流近辺には他民族の血脈がリアルに脈打っているのである。
彼らは、離郷という言いようのない喪失感のなかに生きねばならなかった。哀しくも侘びしい。その侘びというものが、もの足らず、欠落の、ままならぬ、蹉跌の意とするならば、彼らの侘びとは、過酷な、運命的な侘びである。唐津焼の源流は、文禄慶長の役の十年くらい前らしい。秀吉の前、唐津の支配者だった波多氏は倭寇の親分だったから、あり得る。戦の前にも来ていたのだろう。発生的唐津はだから二十年である。その光芒は、哀しみの侘びを由来とし、その侘びの客体化である寂びの美の極みを示してすぐに消えた。それが唐津焼である。現在も私たちの琴線に触れて止まない所以である。-葎-
今展では、唐津在の方に限らず、若手も含めて、多彩な顔ぶれということで出品をお願い致しました。日常使いのうつわという括りでご覧に供します。何卒のご清鑑をお願い申上げます。