寸感
最近よく携帯電話の分野で、ガラパゴス化という言葉を耳にする。ビジネス用語のひとつで、孤立した環境あるいは市場で「最適化」が著しく進行すると、エリア外との互換性を失い、孤立して取り残されるというわけである。進化論におけるガラパゴス諸島の生態系になぞらえたことらしい。このことはわが文化についても同じことが言えるかもしれない。例えば茶の湯や華道、あるいはジャパニーズキュイジーヌといったものは、世界の東の果てのこの国で独自に発酵したものである。
ガラパゴス化、こういった事象は、こと文化一般の世界では大いにプラスに考えられる。特異性はオリジナルともなる。古来より日本は大部分の文化が大陸から伝わってきた。縄文はさておき、日本プロパーのものは皆無といってもよいのではないか。だがいったんこの国に入ると、島国ということか、気候のせいか、独自の発酵をして別物のようになってしまう。
明治になりその経由先が、大陸から西洋に変った初めはヨーロッパから、戦後は、アメリカから怒濤のごとく文化と技術が押し寄せて来た。最初はその衝撃からか、まったく発酵できずに模倣と折衷のようなものを排出して行った。ただ、その完成度は非常に高いものであったことは疑いの余地のないことであると思う。国民性である。
そして最近は、アートの面では、ようやく西洋のコンテキストをそのまま移住させた美術から、この国で弱いながらも発酵させ、独自性をもたせたものが見られるようになってきた。明治以降空白になっていた江戸以前の日本文化が、この発酵にお手伝いをするようになってきたのである。一方工芸の分野では、じつは西洋の浸食は思いのほか小さかったように思う。このことは、今となっては室町、桃山、江戸時代の偉大な功績や、茶の湯に感謝しなければならないのかもしれない。
私がこの世界に足を踏み入れた一九八〇年代中ごろは、まだモダニズムの最終局面を迎えようとしていたころで、現代陶芸は一週おくれのトップランナーというような言いかたをされていた。当時そういった評論を読んで、なんとも複雑な心境になったことを覚えている。今思えば西洋的価値観の最先端のものが前衛で、それにそぐわないものを、一週おくれという言い方で差別化したのだろう。
最近の日本の現代美術の分野でも、工芸を見直すような動きが出てきているように、アイデンティティということで考えると、工芸の方がしっかり過去に根ざしているように思われるし、私自身もこれからの制作の上で歴史や風土を意識しながら、いやことさら意識せずともものを作れるように、自家発酵にこれつとめねばと思う。ガラパゴス的なるものに敬意を表して。顧みて遅きに失した感なきにしもあらずではあるが…。(山田晶)
AKIRA YAMADA
1959 京都生まれ
1983 京都府立陶工職業訓練校卒
1986 京都市工業試験場本科卒
1987 朝日現代クラフト展
1988 朝日陶芸展
1989 セラミック アネックス シガラキ’89
(滋賀県立近代美術館ギャラリー)
1994 ビヨンド ヴェセル -器の概念を越えて
(マクドガル ミュージアム ニュージーランド)
2000 国際陶芸交流展(中国美術館・北京)
2003 2003現代韓日陶芸展(錦湖美術館・ソウル)
2005 ‘湖国を彩るやきもの’(滋賀県立陶芸の森)
2006 ビヨンド ザ ボーダー(シンガポール国立図書館)
2007 朝日現代クラフト展 招待出品(SOFAニューヨーク・NY)
2010 パラミタミュージアム大賞展