謹んで新玉の御慶を申上げます。本年も何卒の御贔屓を御願い申上げます。
「そこにあるのは美しい花であって、花の美しさではない」と小林秀雄はいっている。はじめはなにをいっているのかわからなかったが、花の美しさはその色とか形とか香りによるのではなくて、もっぱら「美しいから美しい」というより他ないというようなことであって、花はただ「美によって美」なのだということだと思う。この世の花が見せるこの世の花ならぬ、花のイデア的形相といったものを直截に言下にいっているのだなとあとで合点をした。要するに美は決定している、うるさいことはいわずとも、これでいいのだといっているのである。
美それは揺ぎない一つの価値であり、一つの完成、完了であり、それは私たちに無上の満足を与え、神に接するの思いさえ抱かせる。美にこの世の最上のものを認めて人生の目的をそこに定めることさえある。美はまた私たちに美しい眺めを提供してくれる。その眺めを前にして、私たちは永遠の相をかいま見ることができる。一瞬を永遠にとらえ直して、この世のあるべき姿を心に思い描いたりする。
現世は見渡せば卑俗なもの下劣なものに満ちているともいえる。しかし真に美しいものだって点在している。なかなかに出会い難くとも、それに気付くようでありたい。多くの美を発見できる人は幸いである。その人の生も美に彩られているにちがいないから。そういう人たちが多くいる社会も美しく彩色されているのだろう。幸福というものを考えるとき、個人の幸福も理想の社会も美なしには考えられない。美は暗闇のかなたに光る希望である。
ところでその美はいつもエロースといっしょなのである。エロースが美をさし示し、美と私たちをかたく結びつける。美が生き生きと輝きを放つのはエロースの働きである。ただし私たちのほうでも、心が積極的に燃えなければ美もまた輝かないだろう。エロースは、私たちを美の冒険へと駆り立てる。美に悪魔的な側面があろうとである。冒険する気概を持たなければ、人生は精彩を欠くものとなるのではないか。いくつになっても能動的に美を希求し、美を愛する熱情を持っていたいと思う。ただし耽美派というのでは不健康である。エロースにもいろいろある。高められ純化されねばばらない。たとえば雌雄の情に耽溺するだけに終わってはあまりにも空しいのである。
芸術もエロースなしでは考えられない。高められた段階のエロースが人を制作や生産へと向わせる。
「花やキノコは人間の身体の内側に隠れた部分がひっくり返って外側に露出している面白さが、色々なことを教えてくれます。花びらや葉や茎の出方、つるはもちろん、内臓もそうだし、さらには星の自転、公転、銀河の形…、みんなねじれながら出現しているのが、私には面白くて仕方がないのです。そんなことをロクロの上でさらに螺旋を描くように、グルグル巡り戻ってきたりする思考ゆえに出現する形や文様が、生命感溢れるものでありたい、あたたかく血のめぐるようなものでありたいという思いです。街に暮らす私にとってもはや身近ではなくても、決して離れては生きてゆけないという記憶や熱が、ものを作らせます」。
文章に表そうとすると思いあまりこうなる。しかし美への渇望というか、のっぴきならない心がいわせるというような、内面からの充実した必要性、切実さを感じさせる。今展の花塚愛が書いてきたものの一部である。筆者には詩のようにひびくものがある。エロースを欠いたある種の美学者や批評家、鑑賞家には吐けない言葉である。いっさいの芸術上の表現は、このようなエロースと美に満たされた心を必要とするのではないかと思い云爾(しかいう)。
葎
AI HANAZUKA
1982 神奈川県生まれ
2005 多摩美術大学美術学部工芸学科陶プログラム卒業
2006 日韓現代陶芸~新世代の交感展(愛知県陶磁資料館)
2007 京都市立芸術大学大学院工芸専攻陶磁器修了
個展(INAXガレリアセラミカ・東京)
2008 ガレリアセラミカの7人展(世界のタイル博物館・常滑)
2009 現代工芸の視点 装飾の力(東京国立近代美術館工芸館)
2010 やきものの現在 土から成るかたち
(多治見市文化工房ギャラリーヴォイス・岐阜)