今展では、天竺の蛇窯、上矢作のガス窯で焼成した大鉢から、大小さまざまの碗鉢、すなわちBOWL尽くしということで開催いたします。ハレの場、ケの場、日常非日常さまざまなシチュエーションで見立て、引き立てていただきたく、何卒のご清鑑をお願い申上げます。
ギャラリー器館拝
‐天竺通信PARTⅡ‐
作家(芸術家)はものを作る。それは自己の内なる世界を表出する行為である。だれものぞき込むことのできない、また立入ることを許さない不侵犯の世界である。芸術的創作のとき、作家は、全世界を自己の一点に受け止めてなにかを生み出しているような気になるのではないか。成功すればしめたものである。そこにまずは最大の歓びがある。そして、作家は、出来たものを持って立ち尽くす。自己のことを、作品を、だれが受け容れてくれるか、だれが理解してくれるのか、あるいはだれに否定されてしまうのかと…。このとき、作家は他者という存在を強烈に意識し欲しはじめる。作家が死んだら、代りにものが他者を求めて彷徨い歩きはじめる。ものを作るということはそういうことである。作家と作品は、他者によって、この世に浮かび出でることができるのである。だから、他者不在の作品はダメでありムダなのである。もっとものっけから他者を過剰意識したものもダメだが。それは自意識過剰と同じことである。
芸術の人には浮世ばなれしているような人が多い。しかし世の常の人と同様、彼らだって浮世の波に揉みに揉まれる。彼らは世間知に欠けるところがあるから、普通の人より生きがたい思いがあるのではないか。しかしそれに耐えて、また不安とか怖れ、あるいは絶望といったものかもしれないが、そこをぐっと呑み込んで、不器用でも他者との邂逅を積極的に求めるべきである。そうすることが作る人の孤独と不安を慰撫するのではないか。それが作る、生きる支えとなるのではないか。見つけてもらうのを待っているだけでは甘いというべきだろう。このことはなにも芸術の人に限らないか…。
前年に引き続いての鯉江明の個展である。また父上のことを引いて恐縮だが、父上は他者との接点を渇望する人である。人間のことが好きなのかどうか本当のところは知らないが、カラ元気を振りしぼって、おのれにとっての他者を尋常を超えて求め歩く。他者とは人間のみならず、他文化がそうであり、歴史もそうであろう。鯉江良二という作家は、それらに対して満腔を開いて受容しようとする人である。そこには通じ合いだけでなく、軋轢といったものもあるだろう。しかしそれらすべてをひっくるめて自己の一点に受け止めようとするのである。そして作品に照射する。彼のなかで他者が価値付けされ価値の区別が行われる。そして、善なる他者が抽出されて、もって作品に美と、思想とも言ってよいものが刻印されるのである。
これは父上の生き方、スタイルであって、なにも明にそうあってほしいと思うわけではない。まねできるものでもないだろう。筆者は、最初は鯉江良二の実子だからという興味半分から明に入っていったのだが、そんな興味は続くものではない、最初だけである。今となっては彼の作品、その人となりに、なにか萌芽のようなものを持続して感じるようになった。その萌芽を成長させるのは明自身だろう。同時にそのためにはいろいろな他者から水を遣ってもらわねばならないだろう。そして花を咲かせるのである。親のいいところ、考え方のうちで、見習うべきところは見習ったらいいのではないか。自分なりに翻案しつつ。親も他者である。筆者は、明の人間に上等なものを見る。そこを作品とともに買ってもらうのである。求めよ!他者を。である。またまた偉そうなことにて蒙御免。
葎