2012年、鯉江良二天草での作。天草陶石単味の清浄な白。自然光でとみに美しい。近頃茶碗はどこか静まりゆくような様子を見せていたが、そしてそれも善哉と思っていたが、ときとしてこういうのも登場してくる。高台から腰までが一段、胴から口までが二段重ね、三段式茶碗である。かろうじて重なりながら、崩れそうでいながら、無二の造形を見せている。危うきところに遊ぶというのはこういう境地をいう。
今展では天草土の茶碗をメインに展観いたします。鯉江良二当年七十三歳、白に遊ぶの世界をご清鑑いただけましたら幸甚に存じ上げます。
掲載の文章は、天草で先生を暖かく遇された丸尾焼窯元・金澤氏によるものであります。こちらもご一読賜りましたら幸いでございます。
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鯉江先生にはじめて天草に来ていただいたのは三年前のこと。若干緊張ぎみの妻が電話をかけたのが始まりだった。「いいよ・・・面白そうじゃない」。その一言に二十代からの鯉江ファンである妻は、満面の笑みでガッツポーズを決めたのだった。
鯉江先生の来島を切望したのは、わたしたちオールドエイジの陶芸家で、若い力が次第にみなぎりつつある天草の将来を見据え、先達を天草にと考えたとき、鯉江良二という名前が忽然と浮かび招聘することにしたのだ。
天草は、世界に冠たる陶石の産出地だが、陶業地としてはほとんど名を知られていない。私の工房には二十代の陶芸家を目指す若者が十名いるが、彼らに陶芸家という実存を感じさせることが、私の役柄の一つだと考えたのだ。鯉江先生と相見えることは、目をつむって象を撫でることになるかもしれないが、それでも十人で触れれば片鱗の集積が起こり、なにがしかを掴むだろうというのが私の目論見だった。
優しくて怖い。紳士で酒呑み。お茶目でおしゃれ。気ぃ遣いで我がまま。繊細で大胆。鯉江先生に対する若者の率直な感想は、見事に対極的な印象となって現れた。振幅こそが先生の本質かもしれない。もっとも、これは偉大なる創作家に共通して語られる印象の一つで、そのゆえを知ればなんの矛盾も生じない、両端とは振幅であり、揺れ幅は深みだと解き明かせば、不可思議も可思議となる。
それ以降、鯉江先生には三度足を運んでいただき、天草の陶芸家に大きな示唆と刺激を与えてもらっている。次男は先生の工房に半年間お世話になり、得がたい薫陶のときを過ごさせていただいた。陶芸に限るわけではないが、人にとり重要なことは頂を知ることだと思う。山を登り始めた若い登山者にとり、仰ぎ見る山頂は標(しるべ)の役割を果たすはずだから。
作陶は、土に魂を込める仕事だが、土の魂も手に宿るのではないか。先生の手に天草陶石の魂が宿ることをねがっている。一般の人は焼きものを手で作ると思っているかもしれないが、焼きものは心で作るものだ。もっと鬩(せめ)いだ表現をすれば、焼きものは魂で創るものだ。現代の陶芸家でそのことをもっとも具現している作家は鯉江先生だと思う。先生はよく自らの胸を叩きながらコラソンと言われるが、胸の鼓動こそが創作の本質だと思う。
一昨年の秋、先生が天草の若い人たちと話をしていたとき「そこ、そこ…そこなんですよね」。と若い陶芸家が言葉を発したことがあった。それに対して鯉江先生は「おまえのいうそことは一体どこなんだ」。と厳しく問われたことがあった。陶芸家はモノで指し示せという意を込めての発言だったと思うが、覚悟の一端を垣間見た瞬間だった。そこという曖昧、ここという確信。ここ‐此処‐なる確信・核心を粘土で顕わに焼きかためる行為が陶芸家の本分なのかもしれない。
お会いする機会が増えるほどに、鯉江先生は発熱体なのだと思う。かといって発熱ばかりの人でもない。先生にとって発熱は衝動の始発点であり、行為の原点かもしれないが、終点ではない…。陶芸家の終点は作品であるからだ。鯉江先生は個として連鎖しつつ宙(そら)の果てまで拡散し、宙の果てから一点の個へいたる律動をくり返しながら、確信・核心である「ここ」を焼きかためる存在なのだとあらためて想っている。
今年の春…、天草において天草陶石に触れていただいた。天草土に触れていただいたのは今回で三回目。先生と天草陶石は次第に交歓が出来るようになりつつある。鯉江先生と天草の縁はまだ始まったばかりで、これから先どんな物語を紡ぐようになるのか、今はまだ判らないが…鯉江先生の今と…天草のここを…観じていただければ幸いである。
天草丸尾焼五代目窯元 金澤一弘