第十一回遊碗展
●出展作家(五十音順 敬称略)
秋山潤 秋山陽 池田省吾 石山哲也
板原摩紀 伊藤秀人 今泉毅 植葉香澄
大江志織 奥村博美 隠崎隆一 クリスティナマール
加藤委 鎌田幸二 川端健太郎 岸映子
金憲鎬 桑田卓郎 鯉江良二 里見寿隆
柴山勝 神内康年 高間智子 滝口和男
武田浪 丹羽シゲユキ 辻村唯 津守愛香
デレックラーセン 出和絵理 豊増一雄 中里太陽
長谷川直人 花塚愛 原菜央 松田百合子
松本ヒデオ 三原研 村田森 柳原睦夫
山田晶 吉川充
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遊碗展と銘打った本展も今回で十一回目となります。その度にいろいろと口上といいますか、この展に意図するところを述べてまいりましたが、つづめれば、要は一期一会的なものに出会いたい、そしてそれを機縁として作者の方々と、ひいてはお客様との〝交感〟ができればという思いが根っこにありました。それを媒介するものが茶碗ということです。「遊碗展」としたのは、なかには茶碗となると身構えるといいますか、敬して遠ざけるといった作者もおられましたので、まあ遊碗といって韜晦(とうかい)したわけです。あの人にも茶碗を作らせてみたいという魂胆なわけです。しかしきっと見破られていたことでしょう。あと「遊」ということで、茶碗のイメージや規矩からの逸脱という意味合いも込めたつもりです。自由な心境で作ってほしいと思いました。毎回平均で三十名前後の作家の方々が出品してくださったので、延べで四百名近くになります。目に焼きつくような茶碗が思い出されます。
それにつけても茶碗というものは、つくづく不思議な物だと思います。いわんや、いかがわしいものでさえあります。たとえば、わけのわからない付加価値が加味されたり、中身よりもお墨付きがものをいったりといった茶碗周辺の事柄があります。しかし、いかがわしいといった見方がされたりする陶器がいったい他にあるでしょうか。非常に面白い現象だと思います。この事はひとえに茶碗の過去にその由縁があるのだと思います。
要するに、茶碗は単なる物ですが、その過去におびただしい逸話を蔵しているということがあると思います。だから格別の物となったのでしょう。あるいはいかがわしくもなったのでしょう。この数百年という時のあいだにです。この長きに耐えられたのは、もちろん茶道があったからです。
筆者は以前に、茶碗の不思議さについてこう申したことがあります。 ―なぜ茶道が数世紀を経ることができたのか。それは背後に膨大な物語を蔵しているからである。フィクションであれ、ノンフィクションであれ、偉大なストーリーを宿しているからである。それは、人はいかに生きるべきかという物語であり、命より上位の価値観についての物語であり、宗教的救済を示唆する物語である。そのなかで、茶碗という物は、物でありながらいわば狂言回しの役割を演じているように思われる。壮大な叙事詩の完成に欠かせない役回りを演じているのである―。
また大げさな話になってきましたが、しかし茶碗という物が、私たちの文化の精華の一つであることは言えると思います。だから独自の感性、美意識でもって私たちはそれを見て、取り上げるのだと思います。見立てという前衛的行為もあえてする。そして観照します。やっぱり単なる碗、ボウルのくせに不思議な物です。
今展も、思いのほか、たくさんの方々に応諾をいただきました。
なにとぞご清賞賜りますようお願い申上げます。
葎