抽象と具象について
およそ〝作品〟というべきものなら、そこになんらかの抽象が盛り込まれていなければならないと思う。もっとも芸術における抽象は、だれにでもできるわけではない。深く広く抽象の成立している作品はまれであり、宝石のように貴重であると思う。そのようなものに出会う経験は格別である。抽象のできる人とできない人との違いは画然としてあると思わされる。へたな抽象休むに似たりということである。
そもそも抽象とはどういうことなのか。芸術における抽象というと、どこか漠然としている。人間の精神活動としての、もっと古い、厳密な意味での抽象というものを考えてみれば、抽象の極みは数学だと筆者は思う。究極までそぎ落とされた数式は優美でさえある。もっと卑近な例でいえば、電線にとまっているすずめが五羽いて一羽を鉄砲で打ち落とす。あとどうなるか。算数の問題として処理するなら残るのは四羽である。しかし現実は一羽も残らないだろう。算数は、この現実を無視するのである。無視しなければ成り立たないからである。諸般の専門科学は、だから抽象によって成立しているのである。抽象のもとの意味はこういうものなのではないか。抽象とは、ある一事を残して、ほかの面をすべて切り捨て、無視することであると。
しかしそういうことなら、数学は成立しても、たとえば政治も芸術も成り立たないということになる。政治はすずめは五羽すべていなくなるという現実を無視できないだろう。いなくなると言わなければばならないのである。打ち落とされた一羽のことも考慮しなければならないのである。その上での政治である。すなわち具体的かつ総合的でもあらねばならないのである。他方で、数学のようなはっきりとしたきびしい抽象も要求されるのである。政治家の言説がまったくの抽象論では役立たずなのである。非常に危険でもある。芸術にも似たようなことが要求されるのではないか。
芸術も、政治やあるいは哲学と同様、専門科学ではない。だから抽象性のみでは作品は成立しないだろう。具体性が要るのである。その具体性は個別的なものではなくて、政治や哲学に似て総合的なものである。筆者はそれを仏像とか、あるいは一人の芸術家の生涯の作品に見る。芸術は「はっきりとした抽象性」を根本に持つ具体性の表現であらねばならないと思う。すなわち人々の腑にすとんと落ちるような抽象がすぐれた抽象なのだと思う。それが私たちの目に高次な具象として映ってくるのではないか。そのようなものが本物だと思うのである。
内田鋼一の本を見ていて次のようなくだりがあった。引用すると…「かたちが具体的であればあるほど、内面はものすごく抽象的な行為であり、抽象性をはらんでいるということが、ほんとうはいちばん大切なところだと思っているんだけど…」。
漠たるところで同じようなことを思っているなと、シンパシーを禁じえなかった。-葎-
内田鋼一展Koichi UCHIDA
7/14 Sat. 〜 8/5 Sun. 2012