陶世女八人展 出展作家
稲崎栄利子 Eriko Inazaki
今野朋子 Tomoko Konno
高柳むつみ Mutsumi Takayanagi
田中知美 Tomomi Tanaka
楢木野淑子 Yoshiko Naragino
服部真紀子 Makiko Hattori
村田彩 Aya Murata
日本は陶芸大国である。やきものをすなる人の数はごまんといるといわれるが、本当に統計上それくらいいると聞いたことがある。そのうち女性の割合はどのくらいだろうか。すでに男を凌駕しているのではないか。たとえばここ二十年くらいだろうか、芸大の学生をみてもほとんどが女で男はパラパラと見かける程度である。オール女性の学年があったりするのである。そして、実際の陶芸シーンでも女性のほうが断然優勢のようである。新進の見るべき作品、個性才能があちらこちらに散見される。まとめれば一団となるだろう。この現象、縁ある者として寿ぐべきことと申上げたい。
才能というものは、天才も含めて、出るときはまとめて出てくるものである。時代の影響を受けてである。人はなにかに影響されざるをえない存在である。影響を心から欲する存在といってもいい。その最たるものが時代というものだろう。人は時代に流される。染められる。とり残されては大変、絶望的である。バスに乗り遅れまいと、うまく立ち回ろうと必死になる。そして多くの人がうまく立ち回ることができずに終わるのである。時代は人を生殺与奪するある種の怪物ともいえる。そして今のこの時代はどうであろうか。漠然たる不安ということが言われて久しいが、ここに至って、その不安というものの実体が、急に顕わになってきているのではないか。この時代に惹起している出来事、あるいは科学技術の結果する現実は、かのシュールレアリスムも顔色なしといったものがある。
そんななか、昨今の若い女性作家たちは、当世、すなわちこの時代に呼吸しながらどのような影響や刺激を受けているのだろうか。彼女たちの作るものにはある種の共通項があるように思われる。その仕事は、非常に細密でデコラティヴである。覆いつくすような装飾。その装飾は、彼女たちの疲れを知らない指先によって反復し増殖していく。そしてほとんどトランス状態となって内へと沈潜していく。まるで外のことなどおかまいなしといった様子に見える。これを女性ならではと言おうか。
唐突だが、時代意識というものを考えると、男はダメである。男の精神は女にくらべて不安定である。時代というもの、あるいは未来といってもよい、それへの意識の、ある意味過剰な、そういう時代とか未来に対する意識の過剰に苦しめられるところがある。弱いのである。ひき比べて、女性の時代に接しての振舞いは、男と違うように思う。女性は、ことここに至ればという際のところで、腰がすわるというか、諦観し、ふっ切ってしまえる強さがある。一般論ではあるが。
今展の八人を始め、彼女たちの作品は、たしかに女性的と括られるようなものかも知れない。手芸的という人もいる。その底意は見えるような気がする。上から目線である。しかし彼女たちの作品を見るにつけ、これはかなわないなあという思いがわく。女性的でいいではないかと、それなら男にまねできるのかといいたい。筆者は彼女たちの作品に、営々たる連綿の様子とか、生命に対する愛慕、祈りのようなものを見る。漠然たる不安などどこ吹く風といった強さを感じる。時代とか歴史に過度に執着しない、永遠なるものへの志向がうかがえる。
彼女たちにしても、時代に対する複雑な思いはあろうと思う。しかしこの時代に、彼女たちはあちこちで花を咲かそうとしているのである。毒々しい花も含めてである。しばらくはこのカラフルな情景を頼もしく眺めていたく思う。男にも奮起してもらいたく思い云爾(しかいう)。-葎-