堤展子の個展は、今回で七回目となる。六年ぶりである。少しあいだが空きすぎたような気もするが、縁というものは、濃くなったり、うすくなったりするものである。あるいは切れもする。六年といえば長い。ご無沙汰でしたと、今展で久闊を叙したく思っている。
筆者は筆者なりに、彼女の理解者を自認しているつもりでいる。作品に深く同情するところがあるので、これまでに何度も、彼女の人と作品について作文などして述べてきた。だから言いたいことはもう尽きた感がある。しかしそうもいかないので、ここにあらためて、彼女の一流独自なところ、真骨頂といったものを、御免を蒙り再述してみたいと思う。
それはやはり「作品ハ人ナリ」ということです。
曰く、彼女の作品にはある種の毒性がひそんでいる。ただし盛ってやろうと思って盛っている毒ではない。それは彼女の人並みはずれたナイーヴさに由来するものである。彼女は非常にデリケットな神経の持ち主である。情緒が少しく不安定である。異常な気づかい屋と思わせる一面がある。そのせっかくの気づかいがすべる。こういう人は傷つきやすい。だれも傷つけていないのに一人で傷ついたりする。その傷が膿んだりすることがある。膿んだら毒である。こういうタイプの人は、世の中にたくさんいるだろう。だれだって生きているかぎり無傷ではいられないはずである。しかし堤の場合、彼女の傷つく感受性は、余人とは異質のように思われる。なんというか、もっとぎりぎりの境域にわだかまっているような感受性の持ち主のように思われるのである。
そんな堤の精神の、いわばわずらいの部分が、彼女ならではの陰翳を作品に与えているのである。その陰翳の奥まったところに毒性が、寓意性がかいま見られる。それは堤ワールドといってもよいものである。彼女の場合精神の弱点が、一つのモメントとなって創作を助けているのである。醜悪で瑣末なものでも、忌むことなくあるがままに出してくるところがある。文学でいえば自然主義文学か。彼女のよくできた作品はすぐれた私小説のような観を呈している。やきものをすなる人としては、稀有な一人であるといいたい。
ひいては連関するように、おのずから彼女の作品にはそこはかとない哀情がただよう。歓楽極まれば哀情多しという。金ピカ、ショッキングカラー、下手なのか上手なのかわからないような、おかまいなしの押し出しのなかで、ヒリヒリとした哀しみといったものを感じる。フィギュアに、茶碗に感じてしまう。それは高麗茶碗のショウジョウとした、ものさびしげな姿とは別種のものである。道化のクラウンがおどければおどけるほどに見物が感じてしまう哀しみといったらいいだろうか。
筆者は、彼女のことを子供のような人だと感じることがある。大人の社会になじみきれない子供のままの人。しかし子供のときに住んだロストワールドに郷愁をおぼえ、恋こがれるのは大人のほうなのではないか。筆者は彼女のなかの多少の厄介さに困惑しながらも、彼女の心にガラスのような透明な部分を感じる。そこに彼女の弱さも透けて見えるが、そのような無垢な、フラジャイルな精神の弱さのある人でなければ、作品に深く陰翳を刻むことはできないのではないか…。
と、以上このようなことを書いてきたように思う。畢竟、作品は人なりということである。しかし六年の日月を経て、彼女は変わっただろうか。それは作品を見ればわかるだろう。作品は人なりということは、彼女のような人にとってはつらいことのようにも思われる。しかし作家はそこから逃れることはできない。彼女は彼女のアイデンティティーを示し続けるしかないのである。筆者は長年のよしみで、これからも彼女の作品の真の友でいたいと思うものである。
葎