荷政は虎よりも猛しといいます。事と次第によっては国家と政治は牙をむいてやって来ます。そして財産や身体、生活、命まで持って行かれます。現在も、世界中にそういった最悪の政治状況があるのを私たちは見ています。最終的にゲバルトでもって、私たちをギャフンと言わせる。そういうことができるのは国家だけです。それも合法的にあるいは法を超えて実行されます。今のところ私たちは、そのような強制とか掠奪といった状況にはないにしても、先々のこととなると、どのようなことになるのやら、知れたものではないと思います。この国はそんなことにはならないでしょうか。
ところでまた選挙がやって来ます。今回は、前回ほど空手形の乱発はひかえるでしょうが、例によって例のごとく、結構ずくめの選挙向け宣伝を聞かされるのでしょう。あれは甘言を弄するといって、欲に訴えて私たちを操作しようとする詐欺師の手ぐちに似ています。そりゃあタダで物くれる人、タダで金くれる人はいい人に決まってます。もらえるものならもらいたいと思うのが人間一般の人情です。しかし政策として法律を作って、いったん配ってしまったらもう昔に返らずです。国の責任においてずっと払い続けなくてはならない。もらう側は定期的に天から降ってくるようなものです。キャッシュですからさぞ有難いことでしょう。しかしタダほど怖いものはないとも言います。
この世はしばしば神も仏もないところです。それがこの世というものだと思っております。しかし一方で、神は万能のはずである、それなのにこのいわれなき私たち人間の不幸はどうしたのか、神の救いとか正義はどこにあるのか、肝心なときに神はいないではないかと、神への疑義が生じてくるわけです。そこでこの疑義に対するいわば神のためのアポロジーを展開するのが神学とか神義論の役割なのでしょう。この世の悪や不条理に対して神は責任を負わないということです。話がまた逸脱しそうになってきましたが、今日の私たちは、その万能の神でも引き受けないような責任を国に押し付けている。なんでもかでも国の責任にしてしまえといった風潮が、それが世論の支えになったりしています。「日本国よ、この私の不幸、不遇、災難をどうしてくれる。弁償せよ。賠償せよ。補償せよ。訴訟するぞ」。自業自得のものが多いのではないでしょうか。国の責任は無限であるというわけです。そのくせ他方では、国の力を弱くし、小さくすることを、民主主義の名を振りかざして要求する。この了見はどこから来るのでしょうか。
一口で言えば、みっともないことをしても言っても大丈夫だというふうに読もうとすれば読める甘いことが、わが憲法に書いてあるからだと思います。国民主権と書いてあるからもうこっちのものだ。おれは殿様だくらいに思ってしまうのでしょう。あるいはそのように吹き込まれるのでしょう。しかし本当の意味は、国民が主権を帯びるということは、治者と被治者、サービスする者とサービスされる者とが別々にあるのではないことを意味している。それだからすべてのことは私たち自身の責任においてなされ、結局の責任も私たち自身にあると言わなければならないのだと思います。本来の主権意識というものはそういうものだと思います。古人は、わがまま放題の、放埓な自由は独裁制を招来すると言っております。
この度の選挙では、少しでも善き方角へ私たちの将来が向かうように願いたいものです。本年も押し詰ってまいりました。正月と思えばはや大晦日。新年も目前であります。皆様ご機嫌よろしゅうお迎えくださいませ。
葎
KATAYAMA,AKI
1979 広島県生まれ
2002 京都市立芸術大学美術学部陶磁器専攻卒業
主な個展、賞歴
2004 京都高島屋美術工芸サロン
2007 サヴォア・ヴィーヴル(東京)
2008 サヴォア・ヴィーヴル(東京)
第26回朝日現代クラフト展 審査員奨励賞
2009 ギャラリー器館(京都)
サヴォア・ヴィーヴル(東京)
2010 ギャラリー器館(京都)
2011 サヴォア・ヴィーヴル(東京)
2012 萩の庵(徳島)
サヴォア・ヴィーヴル(東京)
茶の湯の現代2012-用と美- 入選(菊池寛美記念智美術館)