歎異抄に、こんなふうな師弟の問答がある。
「お師匠、このごろいくら念仏申してもダメなのです。よろこびが湧きません。不審感がつのるのです。それが心の重荷です」。
「お前もそうだったのか。じつはわたしもお前と同じ心だ」。
「お師匠、びっくりするじゃないですか」。
「いや、そんなふうに思ってしまう心があるからこそ、かえって往生まちがいなしなのだ。よくよく考えてみたら、よろこぶべきことをよろこばないのが、つまりわたしたちの煩悩の深さ、強さというものなのだ。そしてそれだからこそ、いよいよ仏(ぶつ)は大きく悲しみ大きく願って下さるのだ。救って下さるのだ。そう思え。専修(せんじゅ)せよ。往生決定(けつじょう)なり」。
親鸞と唯円とのディアレクティークである。
なんだか表面的にはこじつけの詭弁のように聞こえるが、二人の仲だからこれでいいのである。二人はすでに同じ一本の道を行っているからである。唯円のひそかな悩みを、親鸞も荷なってくれたのである。人との結びつきのなかで、信仰とか信心ほど堅いものはないのではないか。二人の心はあらためて通じ合ったのである。唯円はこのことにより以前にもまして信心を堅固なものとしたのだろう。唯円は善き人に恵まれていたのである。顧みて私たちの現代にも、このような〝善き人〟との邂逅を期待できるのかどうか…。
唯円の抱いた不審や疑念は、のっぴきならないものだったにちがいない。人は死んだらすぐに腐る。それが現実である。しかし死なずとも生きながら腐ってくるということもある。水も動いていなければ腐ってしまうのである。唯円ほどの身命を投げ打っている人でも、おのれのなかに腐臭をかぎわけていたのだろう。彼はそこで初心に返ろうとしたのである。不審はそのための一つのモメントだったのである。疑念は信心をいよいよ堅くするための一波瀾としてあったのである。彼は何度目かの大発心をなし、何度目かの蘇生を果たしたのであろうと想像している。
初心忘るべからずという。よこしまな初心は論外として、それを維持できる人は偉いし、幸いだとも思う。筆者などは、生来怠惰かつ不徳であって、この腐りかけの自分を怖れて、進行をとどめようとして、数え切れぬほどの、低いレヴェルでの初心発心をくり返してきたように思う。それは向上心というものでもないように思う。そうでもしなければ、すべてが面倒くさくなり、インディファレンス、すべてがどちらでもいい、どうでもいいというような、無表情なニヒリズムに陥りそうな気がして怖れる。他の人はどうなのだろう。小刻みに初心発心をくり返す。それが凡夫凡婦というものだろうか。
たとえば、芸術の人の初心は、世の常の人よりずっと持するにむつかしいものがあるのではないか。たとえば今展の浅野哲(さとし)などは、一つことをずっとやり続けている人のように思う。しかしその仕事は、ゆるやかに進展変化を見せ、洗練を加え、尻上がりのものを見せている。筆者は思う、彼はこれまでに何回くらい初心発心を重ねてきたのだろうと。別世界の人のこととはいえ、シンパシーを覚えるのでる。
浅野哲展、今回で五回目の展となります。きれいな白に、きれいな色釉が映えております。色釉は何十種にも及びます。彼の、継続する一存一念といったものをお感じ取りいただけましたら幸甚に存じ上げます。
葎
SATOSHI ASANO
1958 大阪生まれ
1988 京都市立芸術大学大学院陶磁器専攻修了