有徳の徳高き人は、我いかに生きるべきかといった問題について、あまり迷うことがないのかもしれない。そのような人が人生のうえで行う折々の選択は、つねに堅固な意志に裏打ちされていて、あやまちもほとんど犯さないのだろう。すなわちこの世の確実なもの、善いと思われるものをきっちりと見定める知恵をそなえているのだろう。しかし凡夫凡婦たる私たちはなかなかそうはいかない。おのれのため人のためよかれと思ってしたことが裏目に出ることほうが多い。まことこの世はままならぬのである。人の不幸はあやまつことにあるように思われる。
我いかに生くべきか(あるいは死すべきか)という問題は、マジメ人間にとっての終生の大問題なのであるが不マジメ人間にとっても、うかうかと過ごす人生のどこかでいつかは直面させられる問題となる。宵闇に突然匕首(あいくち)を突きつけられるように。そのとき彼はこれから引き出される犠牲獣のような顔つきを見せるのではないか…。思えば人は結局はみなマジメな存在なのかもしれない。さにあるべきと思う。
私たちはみな、なにかゆるぎのない確実なものをマジメにさがし求めている。それが見つかり、最上の価値ということになれば、いかに生きるべきかという問題は解決するのかもしれない。そのような確実なもの…。筆者はやはりこの世でもっとも確実なものは、美であると思う。べつになにもむつかしいことを考えずとも、美しいものは美しい。そこに迷いはないだろう。美は完了している。美は私たちの好悪によって決定される。好悪というのは、その人の生まれつきとか育ちによって身についた尺度のようなものである。その尺度で美醜の判断がなされる。眼前の美は決定され、われら何をなすべきかというような迷いは、美にはないということになる。美はまた、私たちを神に近づけ、神に接するの思いをさせてくれる。そして宗教にも似た救いのようなものまで感じさせてくれる。清浄で清涼な境地へいざなってくれるのである。
しかしながら、美を人生の目的に定めて生きるといってもだれにでもできることではない。美は私たちに美しい眺めを提供し、永遠の相さえ垣間見せてくれるが、他方で、私たちの生き方をきびしく律する。美のなかへ分け入るにつれ、いよいよきびしく私たちは試される。風流に生きるということがあるが、それは犠牲的で極道的な生き方を強いられることでもありうる。美は私たちに冒険を要求し、ある局面ではここで死ねと要求してくるかもしれない。この濁世というか浮世で美を人生の中核に置くということはそういうしんどいことなのかもしれない。
川端は訥弁の人であるが、そのセンシティヴでポエティックな感性は特筆ものである。作品はユニーク無比と言いたい。若手の中でも一頭抜きん出ている。彼の創作のモメントは、生命に対する全肯定、謳歌にあるように思う。そこには複眼的に死というものも見据えた生へのまなざしがある。それは美の諸様相への憧れと驚きに由来するのだろう。彼独特に憧れ驚くのである。それはミクロ的である。美はつねにエロースとともにある。エロースは美のイデアへといざなう。その途上で、人間にきびしい試練を、死さえ与える剣呑(けんのん)な神様であるが、川端は天然にかわいがられ、愛されているようで、それなら、その愛がいっときでもながく彼のうえに注がれてあってほしいと願い云爾(しかいう)。
葎