写真の作品は本年2013年、植葉香澄さんが信楽にこもって作り上げたものです。タイトルは〝ノアの壺〟です。現在は京都の佐女牛井(さめがい)というところに据えられています。西本願寺の真向かいです。澄んだ清水が、こんこんと湧き出ているところです。作品にふさわしい場所を得たのではないかと思っています。ここの湧水は、茶の湯天下一として珠光、紹鴎、利休、有楽らが汲みにやって来たそうです。この壺、高さはゆうに百八十センチを超えます。尋常ならざる大きさです。重さは二百キロ以上はありましょうか。これを運ぶのが大変でした。FRPのものなどとは勝手が違います。これはやきものです。なかなか運送屋が仕事を受けてくれなくて、逃げられたりしました。なんとか段取りをつけて現場まで運びました。それからがまた心配です。あとはいちかばちかで、ヨイショと大声疾呼、人力でもって神輿のようにかつぎ上げ、運び、納まったわけです。もげず、欠けず、割れず、無事に鎮座させることができ心底ほっとしました。多くのかつぎ手を出して下さった社長に感謝しております。かついでくださった方々の日頃の精進がよかったのか、作品自体なにものかに守られていたのかと、いまになって思われます。
振り返れば、彼女の初個展を2005年に弊館でやって以来、はや八年を数えました。今回の展で七回目となります。この間彼女はまさに疾走してきたと思います。現在もそうでしょう。撃ちてし已まむではないですが、芸術の人は、常住坐臥、作り続けているということが求められます。よし作れなくなるときがあるとしても、続けることをやめればそれで終わりでしょう。見物の要求は、視線は残酷です。芸術の人はそれに耐え、応えねばならないのです。見物と言いましたが、芸術というものは、さらに上位の他者である自然や歴史、文化、あるいは神をも含めた他者からのきびしい問いかけ、あるいは大いなる恵みを受けて、その価値を帯びるものだと思います。そのような偉大なものとのつながりのなかから生み出される作品は人を感動させます。それが同時に作る人の歓喜ともなるのです。
この〝ノアの壺〟は、ワンピース一体のやきもののサイズ的限界値を示して立っています。みっしりと描き込まれた文様。ハチャメチャに壺のなかから突き出ているイロイロな生き物たち。そして金髪の人魚が杯を片手にどこかはるかな行き先を見つめています。脈絡なぞどこ吹く風、ここまで乱暴に盛り込むかと思わせるものがあります。しかし不思議と秩序というか調和が醸し出されている。いわばカオス転じてコスモスの観を呈すといったところでしょうか。植葉香澄という作家のなにがこれを生さしめるのか。それを本人に聞いてもムダというか詮ないことでしょう。ただ彼女の天然の天性の部分の発露であるというしかないと思います。それはさかしらで小賢しいものでないことは確かです。ゆえに大いなるものと交信することができる感性とでも言いたいと思います。
おしましいに彼女に言いたいことは、その有り難い感性を磨耗させず、これからもずっと作り続けていただきたい。浮世の事柄と、寄せくる時間の荒波にくさることなく、何度でも初心にかえるということをしていただきたいと思うのです。勝手に願っております。今展でも期待いたしております。残酷な一見物より。-葎-