のっけからまた重たい話で憚るが、やはりこの年になるとまわりから知る人が欠けてゆく。あるいはガンのことを聞くのが異常に頻繁なような気がする。科学の進歩でガンが見つかり過ぎなのだろうか。今のところは他人事だが、滅入ったり、誰かれを案じたりのこのごろである。
幽明境を異にするという言葉が浮かぶ。いったん境を異にしてしまえば、どう騒いでみても、向うからはもうなんの反応も返ってこない。いったい死というものは、私たちの側にあるのだろうか。死は、私たちの生の終るところとして、私たちの生に連続し、その延長線上に考えられたりするが、それは生のこちら側から見ての話である。死の断絶によってへだてられた向う側にはもう私たちの手もとどかないし、声も通じないのである。私たちの生は、そういう絶対的な仕方で切断されている。死はこの世で唯一の絶対事であり、人生において、これほど確かな事実はないのである。しかしながら現代の私たちは死のこの事実を直視するのをきらう。あるいはこの事実になじもうとしない。思うに、私たちの日常やることなすことのすべては、あるいはむしろ、この事実から目をそらすためにしていることなのではないかと思いさえする。
百聞は一見に如かずというが、たしかにそうである。見ればそれでわかるということがある。しかし見れども見えず、あるいは見てもわからぬものがある。そしてはなから目に見えぬものがある。死もそうだと思う。それは私たちの側になかったように、個々の死をいくら見ても、それはこの世で見られるものであり、生に所属するものとして見られるにすぎない。その実体は見えない。しかしながら、死を通してしか見えてこないものがあるのではないか。それは、絶対とか超越とかいうことと、その前に否応なく立たされている自分といったものかもしれない。われわれはみな〝死すべき者ども〟であるということの了解とか諦観も、思想的な対抗軸として今日的に必要なのではないか。我もかえりみて、拳拳服膺(けんけんふくよう)すべき一大事と思われる。
お話変わって、大王イカという生物は、深海に棲息し大きさは何十メートルにも達する。そしてその目玉はあらゆる生き物のなかで一番大きいそうである。ほとんど光のない深海で視力を発揮する。大王イカは何が見えて何を見るのだろう。写真の作品は、高柳むつみが作ったもので、なんというか大王イカの目を荘厳したような様子である。花萼のような外殻が眼球を包み込んでいる。眼球はその外殻に接していない。浮かせてある。この大きな眼をどのようにして仕込んだのか、どうしてもわからなかった。図解してもらってやっとわかった。詳しい説明は長くなるので割愛ご寛恕願うが、この作は四つのピースから成っている。すべてロクロ成形である。まるで金型で取ったようである。でないとアサンブルできない。瞳孔には虹彩が描き込まれている。まわりの唐草文にもダミではなく微塵(みじん)に文様が入っている。萼には白モリで葉脈のようなものが見える。白モリと、赤と、薄緑(九谷青)と、プラチナが上絵である。赤の組ひもがめぐり通って大王イカの神経束のようである。驚くべき作である。この目玉、神気宿るがごとしである。
高柳は弱冠二十七歳、京都芸大の院を出てまだ三年目である。弊館とはこれまでグループ展などで何回か接触があり、かねてその才能には尋常ならざるものを感じていた。前段でものぐるおしいようなことを思い書いたのは、彼女の大王イカの目に気圧されてのこととお察し願い云爾(しかいう)。
葎
TAKAYANAGI, Mutsumi
2008 京都市立芸術大学 卒業
ヘルシンキ芸術大学に派遣留学
2010 京都市立芸術大学 大学院 修了
現在 富山県八尾町にて制作
展覧会
2010 手のひらカフェ’10(monoff・京都)
懐石の器展(ギャラリー器館・京都)
もうそうのふきだし展(ギャラリーマロニエ・京都)
アジア現代陶芸展(韓国弘益大学・韓国)
2011 くうきをうつす/磁器 やまびこのアロー(INAXギャラリー・東京)
佐加豆岐の展PART V (ギャラリー器館・京都)
くうきをうつす/磁器 古城のプロペ(galleryはねうさぎ・京都)
ものうみ 奄美復興支援展(清課堂・京都)
奇想の女子陶芸(阪急百貨店うめだ本店・大阪)
Art Auction STORY…vol.2(関西日仏会館・京都)
ガレリア セラミカの夏 器・小さなオブジェ・道具展
(INAXギャラリー・東京)
2012 わんの形(gallery VOICE・京都)
陶世女八人展(ギャラリー器館・京都)
2013 くうきをうつす/磁器 マルトリケトラ
(田口美術・岐阜/宝鑑美術・愛知)
高柳むつみ展(ギャラリー器館・京都)