筆者は人間本来老若男女なしと思っているものでありますが、その上でですが、男女の性差に由来するおのずからの違いといいますか、あるいは分といったものは人間の社会である以上やはりあると思います。それは生物としての決定的なものから、文化習俗によるものまで、あるいはモラルの部分に関するものまで、いろいろと区別して見られるところだと思います。たとえば男らしさは強さとか勇気、女らしさは優しさとか美しさというふうに、いわば徳目のようなものとして昔から数えられてきたのではないでしょうか。古今の神話や英雄譚に登場する男と女を見れば、ほとんどそのように描かれています。そういう本来的なものをまったく否定してしまうと、人間社会にあるべき麗しさといったものが失われていくのだと思います。男性的なもの、女性的なもの、男と女という二元から派生してくる歴史的文化的多様性に対して、柔軟で寛容な社会のほうが、よりカラフルで自由な(やかましくない)社会といえるのではないでしょうか。男らしくあること、女らしくあることは、ときにはつらく困難なことであり、損得でいえば損なこともあります。しかしながら広範に見れば、それはお互いさまということになると思います。そこをたがいに思い遣り、了見し合いたいものです。それを目のかたきのように差別意識を持ち出しすぎると変なことになります。なんでこれが不当な差別なのと思うような言挙げがあちこちに見られます。たしかに偏見のかたまりのような人間は世の中にけっこういるでしょうが、そういう輩はどこにでもいるものです。そんなことより、秘密をいいますと、実際のところ男というものは、もともとは間違いなく女性崇拝者なのです。昨今男も情けないような有様ではありますが、女の人におかれましても、とくにこのことをご承知置き願い、諸振舞いにご留意いただきたく…。男の中の男、女の中の女が増えますと、この世の眺めはもっと美しくなるのでは思い勝手申す次第です。
以上逸脱にすぎたかもしれませんが、今展の北村純子さんの作品は、すぐれて女性的な一貫性を示して見事です。彼女の仕事は、長い時間をかけて徐々にその人オリジナルなものへと進化し、完成に近づいていくというタイプのものだと思います。彼女の技法は、点刻した文様に化粧土を入れるいわゆる印花象嵌手ですが、この技法を三十年ぶれることなく採用し続け、作品に反映させることに集中してきました。その間彼女は少しずつ本当に少しずつ変化を見せてきたように思います。この、三十年というスパンで見た場合の、間断のないおだやかな変わりようと、ゆるやかでしなやかな進化のしかたには、女性ならではのものを感じさせます。糸を紡ぎ、機を織り、黙々と驚くべき忍耐によってついに綾錦を織りなすような、そんなイメージと重なるものがあります。彼女のスタイルとその作品の継続性、一貫性、そして作品自体の持つ確乎たる三十年の自己同一性…。彼女の作品を見るにつれ、時間の脅迫に屈しないこういう人が、結局は最後に勝利するように思われてくるのです。男はこういう勁さに欠けるきらいがあります。
数千と刻された点々が、
カオスからコスモスへ
移行するような様相を見せながら、
あるいは微塵世界を、
あるいは三千世界を示唆しています。
純粋形体の黒いフォルムは、
モノリスのように端然たる実在感を放っています。
北村純子ワールド、
何卒のご清鑑をお願い申上げます。-葎-
Junko KITAMURA
1956 京都に生まれる
1982 京都市立芸術大学大学院美術研究科修了
1987 南青山グリーンギャラリー個展 (1989,1992)
1992 Garth Clark Gallery 個展 (New York・1992,1995,1998)
現代京都の美術展(京都文化博物館)
1997 世界トリエンナーレ陶芸小品展 (ザグレブ)
1998 陶芸の現在的造形展 (リアスアーク美術館)
2002 新鋭美術選抜展 (京都市美術館)
現代陶芸の100年展(岐阜県現代陶芸美術館)
2004 カタチが切る「日本の現代陶芸」(岐阜県現代陶芸美術館)
2005 現代日本陶磁器展 (ボストン美術館)
2006 日本陶芸100年の精華 (茨城県陶芸美術館)
近代工芸の百年 (東京国立近代美術館)
2008 魅せられる~「今、注目される日本陶芸」
(滋賀県立陶芸の森陶芸館)
2009 現代工芸への視点“装飾の力”(東京国立近代美術館)
Touch Fire: Contemporary Japanese
Ceramics by women Artists(Smith College Museum of Art)
パブリックコレクション
東京国立近代美術館
岐阜県現代陶芸美術館
茨城県陶芸美術館