ケータイもいよいよSmartになってスマートフォンとなり目出度いことだが、人もいよいよStupidの度合いを加速しつつあるようでこちらも目出度い。そのStupidityを法律が追いかける。はじめのうちは自動車では相成らぬとなり、それから自転車で禁止となり、ついに歩行しながらが違法になりつつある。しまいに街の様子は、スマートフォンに脳ミソを洗われながら自失の態で突っ立つ人間の林立図となるのではないか。シュールである。賢いフォンを賢く使いましょうとなんぼ言ってもダメでありムダである。出来たものは昔に返らずということである。取り上げることはできないのである。
いわゆる進歩思想やそれに類する歴史観は、ヘーゲルとかマルクスを支柱とする哲学の分野から出てきたものと筆者はバクッと理解しているが、あれはおめでたい話である。ヘーゲルは現在が最高、マルクスは少し先に延ばして未来が最高、来たるべき社会主義社会において進歩は最高に達するという。世界の歴史は一本の竹が次々と節をつないでいくように、のちの時代に行くほど高みに達していなければならないという話なのだろうが、一体そんなことが言えるかどうか。それあるなら、国家社会はそれぞれに理想の域へ接近しつつあるはずである。しかしながらこの一二世紀を眺めれば、私たちはむしろ不義と醜悪、愚昧と不合理しか認めることができないのではないか。狂信と憎悪が、人間相互に脅威と恐怖を与え続けている。宣戦布告のないカオス的な殺し合いが燎原のごとく拡散している。決戦も勝ち負けも和平もないヴァイオレンスは永遠に続くかのようである。欲と恨みの晴らし合いである。人間も世界もちっとも進歩などしていないのである。これあるかな…。人類の歴史において、真に進歩発達ということが言えるものは何かといえば、それは科学技術だけであって、この科学技術においてだけ、過去のすべての達成をそのうちに包含しつつ、現在が最高の局面を見せながら、これからも暴走的に進歩していくのである。ケータイも、原子爆弾も、その系譜にある原発のようなものも、いったん作ってしまえばあとはいよいよケータイや原子爆弾、原発となっていくのである。すなわちますますスマートになって行くのである。ふたたび目出度い。
唐突だが、筆者は、わが国の江戸の昔がいっそ懐かしい。老子さま言うところの、小国寡民を地でいくような自己完結の幸福な社会だったように思う。民少なく小さな国の話である。その国の民草は、死を重んじ、生をよろこび、足るを知り、知るがゆえに、たとえ舟や乗り物があっても遠くへ行こうと思わない。また遠く移り住もうともしないから、鎧や武器があってもそれらを用いることがない。すなわち機械からくり器物に振り回されない。約束を守り、伝統に生き、衣食は足り、風俗文化はユニークかつカラフル。そのような国の民は、隣国が見渡せても、鶏犬の声が聞こえる近さにあっても、年老いて死ぬまで相往来せずという、仮想の国の話である。江戸の二百数十年はこれに近かったのではないか。
筆者はテレビ男で、いったん見出すと止めどなく見てしまう。懶惰の性の証拠である。見るのはたいてい報道とかドキュメンタリーの類だが、見れば見るほどいやになってきて、それなのに、なにかスペクタクルを見るように、崩壊しつつあるものを、とことんまで見届けてやろうというような気持ちになってその前を離れられないのである。そしてダメだこれは、もうあかんと思ったりする。
今展は鯉江明である。常滑は天竺の土と灰と鉄でもって、瑞々しくも清浄な作品世界を見せてくれることだろう。もの作る人、制作をなす人は、破壊と虚無とは対極にある世界の住人である。筆者はテレビに淫し毒されながらも、ああ次は明君だなと、ふと彼の国の民のような彼のことを思い出すのである。繰り言泣き言、牽強付会にて御免を蒙り云爾(しかいう)。-葎-
AKIRA KOIE
1978 常滑に生まれる
1999 名古屋福祉法経専門学校幼児教育科卒
2001 常滑市天竺無鉄砲窯築窯に参加
2005 初個展 うつわ菜の花(小田原)
以降、各地で個展
赤坂乾ギャラリー(東京)
西武池袋(東京)
橋本美術(名古屋)
ギャラリー数寄(愛知)
ギャラリー器館(京都)etc.